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戦後は[[関西学院大学]]教授を務め<ref name="日本の有名一族"/>、父矢一の顕彰に努めたり、『日本浪漫派』復興を唱えたりしつつ、[[日本ペンクラブ]]の仕事に精を出していた。
戦後は[[関西学院大学]]教授を務め<ref name="日本の有名一族"/>、父矢一の顕彰に努めたり、『日本浪漫派』復興を唱えたりしつつ、[[日本ペンクラブ]]の仕事に精を出していた。


1955年、ウィーンで行われた[[国際ペンクラブ]]の大会に[[北村喜八]]とともに日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、実行するかで非常にもめたが、当時[[日本ペンクラブ]]会長だった[[川端康成]]の決断で実際に開催することになった<ref>[[谷大四]]「懐しき文士たち 戦後篇」(文春文庫)</ref>。1957年、[[国際ペンクラブ]]大会の日本招致について批判され、雑誌で、自分が東大教授になれなかった憤懣をぶちまけた<ref name="日本の有名一族"/>。その道化じみた様子は、[[高田里惠子]]の『文学部をめぐる病い』で揶揄されている。
1955年、ウィーンで行われた[[国際ペンクラブ]]の大会に[[北村喜八]]とともに日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、実行するかで非常にもめたが、当時[[日本ペンクラブ]]会長だった[[川端康成]]の決断で実際に開催することになった<ref>[[谷大四]]「懐しき文士たち 戦後篇」(文春文庫)</ref>。1957年、[[国際ペンクラブ]]大会の日本招致について批判され、雑誌で、自分が東大教授になれなかった憤懣をぶちまけた<ref name="日本の有名一族"/>。その道化じみた様子は、[[高田里惠子]]の『文学部をめぐる病い』で揶揄されている。


その後[[東洋大学]]、[[創価大学]]教授。
その後[[東洋大学]]、[[創価大学]]教授。

2020年7月8日 (水) 05:18時点における版

芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8月15日)は、日本評論家ドイツ文学者

人物

国文学者芳賀矢一の子として東京府に生まれる[1]

1916年東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1921年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、美濃部亮吉(元東京都知事)、正田英三郎日清製粉名誉会長)、岸本英夫東京大学名誉教授)、諸井三郎(作曲家)などがいた。

その後、旧制第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学文学部ドイツ文学科卒。ドイツに留学、エルンスト・ベルトラムに師事する。

帰国後、第三高等学校教授となり、保田與重郎亀井勝一郎らの雑誌『日本浪曼派』、『四季』の同人として活躍し、1937年に『古典の親衛隊』を刊行。独特の文体で、ドイツの唯美主義的感性を導入して、戦時下、ロマン主義的・民族主義的な文学理論を展開した。リルケの翻訳でも知られ、著書に『リルケ』『ニーチェ』『死の超克』などがある。

戦後は関西学院大学教授を務め[1]、父矢一の顕彰に努めたり、『日本浪漫派』復興を唱えたりしつつ、日本ペンクラブの仕事に精を出していた。

1955年、ウィーンで行われた国際ペンクラブの大会に北村喜八とともに日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、実行するかで非常にもめたが、当時日本ペンクラブ会長だった川端康成の決断で実際に開催することになった[2]。1957年、国際ペンクラブ大会の日本招致について批判され、雑誌で、自分が東大教授になれなかった憤懣をぶちまけた[1]。その道化じみた様子は、高田里惠子の『文学部をめぐる病い』で揶揄されている。

その後東洋大学創価大学教授。

芳賀徹の父親と間違われることが多いが、関係ない[1]

著書

翻訳

参考文献

脚注

  1. ^ a b c d 『日本の有名一族』、182頁。
  2. ^ 巖谷大四「懐しき文士たち 戦後篇」(文春文庫)

関連項目