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'''菅沼 定志'''(すがぬま さだゆき、[[享和]]3年([[1803年]]) - [[慶応]]2年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]([[1866年]][[12月9日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[旗本]]([[交代寄合|交代寄合衆]])、[[茶人]]。家督相続前は祐吉、家督相続ののち新八郎。織部正。別名は盈志。
'''菅沼 定志'''(すがぬま さだゆき、[[享和]]3年([[1803年]]) - [[慶応]]2年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]([[1866年]][[12月9日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[旗本]]([[交代寄合|交代寄合衆]])、[[茶人]]。家督相続前は祐吉、家督相続ののち新八郎。織部正。別名は盈志。


[[菅沼定静]]の次男として[[江戸]]に生まれる。交代寄合[[菅沼定邦]]の婿養子となり、[[文政]]4年([[1821年]])家督を継ぐ(菅沼家八代当主。三河国[[新城藩|新城領]]主)。文政12年([[1829年]])[[大番|大番頭]]となり、天保12年([[1841年]])6月24日より[[駿府城]]代( - 弘化2年(1845年)3月)、西丸側衆、本丸側衆、大坂城在番(東大番頭)などを歴任した。大坂城在番在職時の[[天保]]8年([[1837年]])2月に[[大塩平八郎の乱]]が起こり、同職(玉造口在番)の[[遠藤胤統]]とともにこれを鎮圧した。[[安政]]2年([[1855年]])に家督を次男の盈富に譲り隠居ののち、江戸深川に住し、[[宗偏流|宗徧流]]の茶事を嗜み、五世四方庵を継ぎ遊鴎(ゆうおう)まはた蓬葎齋と号した。また絵も嗜み、隺州とも号した。慶応2年(1866年)に没した。戒名は盛徳院殿功誉高岳大居士。子に九代[[菅沼盈富|盈富]]、十代[[菅沼定信|定信]]がいる。
[[菅沼定静]]の次男として[[江戸]]に生まれる。交代寄合[[菅沼定邦]]の婿養子となり、[[文政]]4年([[1821年]])家督を継ぐ(菅沼家八代当主。三河国[[新城藩|新城領]]主)。文政12年([[1829年]])[[大番|大番頭]]となり、天保12年([[1841年]])6月24日より[[駿府城]]代( - 弘化2年(1845年)3月)、西丸側衆、本丸側衆、大坂城在番(東大番頭)などを歴任した。大坂城在番在職時の[[天保]]8年([[1837年]])2月に[[大塩平八郎の乱]]が起こり、同職(玉造口在番)の[[遠藤胤統]]とともにこれを鎮圧した。[[安政]]2年([[1855年]])に家督を次男の盈富に譲り隠居ののち、江戸深川に住し、[[宗徧流]]の茶事を嗜み、五世四方庵を継ぎ遊鴎(ゆうおう)まはた蓬葎齋と号した。また絵も嗜み、隺州とも号した。慶応2年(1866年)に没した。戒名は盛徳院殿功誉高岳大居士。子に九代[[菅沼盈富|盈富]]、十代[[菅沼定信|定信]]がいる。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年7月6日 (月) 22:00時点における最新版

菅沼 定志(すがぬま さだゆき、享和3年(1803年) - 慶応2年11月3日1866年12月9日))は、江戸時代後期の旗本交代寄合衆)、茶人。家督相続前は祐吉、家督相続ののち新八郎。織部正。別名は盈志。

菅沼定静の次男として江戸に生まれる。交代寄合菅沼定邦の婿養子となり、文政4年(1821年)家督を継ぐ(菅沼家八代当主。三河国新城領主)。文政12年(1829年大番頭となり、天保12年(1841年)6月24日より駿府城代( - 弘化2年(1845年)3月)、西丸側衆、本丸側衆、大坂城在番(東大番頭)などを歴任した。大坂城在番在職時の天保8年(1837年)2月に大塩平八郎の乱が起こり、同職(玉造口在番)の遠藤胤統とともにこれを鎮圧した。安政2年(1855年)に家督を次男の盈富に譲り隠居ののち、江戸深川に住し、宗徧流の茶事を嗜み、五世四方庵を継ぎ遊鴎(ゆうおう)まはた蓬葎齋と号した。また絵も嗜み、隺州とも号した。慶応2年(1866年)に没した。戒名は盛徳院殿功誉高岳大居士。子に九代盈富、十代定信がいる。

参考文献

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  • 日本人名大事典(講談社)
  • 茶道人物辞典(原田伴彦編・柏書房)