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「エルトゥールル号遭難事件」の版間の差分

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=== 山田寅次郎 ===
=== 山田寅次郎 ===
茶道[[宗偏流|宗徧流]]の跡取りである[[山田宗有|山田寅次郎]]も、この事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。山田は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に集まった義捐金を携え、オスマン帝国の首都・イスタンブルに渡った。
茶道[[宗流]]の跡取りである[[山田宗有|山田寅次郎]]も、この事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。山田は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に集まった義捐金を携え、オスマン帝国の首都・イスタンブルに渡った。


山田が民間人ながら義捐金を持って訪れたことが知られるや彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でオスマン帝国に留まることを決意した山田はイスタンブルに貿易商店を開き、士官学校にて少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブル訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。山田が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となった[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]もいたとされる。
山田が民間人ながら義捐金を持って訪れたことが知られるや彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でオスマン帝国に留まることを決意した山田はイスタンブルに貿易商店を開き、士官学校にて少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブル訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。山田が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となった[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]もいたとされる。

2020年7月6日 (月) 21:58時点における版

エルトゥールル号殉難将士慰霊碑
(和歌山県串本町)
オスマン帝国海軍「エルトゥールル」

エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890年明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル (Ertuğrul Fırkateyni) が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島樫野埼東方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件[1]

事件の経過

アブデュルハミト2世
エルトゥールル号艦長

訪日

木造フリゲート・エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた小松宮夫妻のコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)訪問に応えることを目的として、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて日本へ派遣されることとなった。

エルトゥールル号は船体の整備を受けたうえで1889年7月14日にイスタンブルを出港し、数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11か月をかけて1890年6月7日にようやく日本へ到着した。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、同年6月13日にアブデュルハミト2世からの皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。

帰途に遭難

紀伊大島トルコ記念館の直下の海岸。画像奥中央の岩礁にエルトゥールル号が乗り上げ、座礁した。

エルトゥールル号は艦齢26年の老朽艦だったうえ、補給品の不足や乗員の経験不足などもあり、そもそも極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が大変な幸運だとみられていた。そして出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、1890年9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールル号の消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側はその制止を振り切って帰路についた。

このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、インド東南アジアムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。

1890年9月16日21時ごろ[2]、折からの台風による強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突し、座礁した機関部への浸水による水蒸気爆発が発生した結果、22時半ごろに沈没した[2]。これにより、司令官オスマン・パシャドイツ語版をはじめとする600名以上が海へ投げ出された。

救難活動

樫野埼灯台

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った[2]

通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功した。その一方、残る587名は死亡または行方不明という大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周おき しゅうに伝えられた。

その後、付近を航行中だった船に大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡のために神戸港へ向かった。神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸[2]和田岬消毒所[3][4]へ搬送・収容された。沖村長はを通じて日本政府に通報し、それを聞いた明治天皇は政府に可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金や弔慰金も寄せられた。

送還

日本海軍コルベット艦である「比叡」と「金剛」が遭難事故の20日後の10月5日、東京の品川湾から出航し、神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けた[2]

なお、 比叡艦長は、薩摩藩出身の田中綱常(最終階級は少将)。オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世より勲章を下賜された。 その他、2隻には秋山真之海兵17期生少尉候補生として乗船した。

追悼と検証

串本町では5年ごとに追悼式典が行われており[5]2008年平成20年)には訪日していたアブドゥラー・ギュル大統領が同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し、献花を行った[6][7][8]

エルトゥールル号の残骸は、2007年(平成19年)からトルコを中心とする数か国から構成される水中考古学の調査団が調査を進めている[9][10][11][12]2008年(平成20年)にアメリカ合衆国海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げた。錨は未だに見つかっておらず、2010年(平成22年)に沈没地点近くの海底にて探索作業が行われた[13]

遭難事件後の日土関係

エルトゥールル号の遭難はオスマン帝国内に大きな衝撃を呼んだが、アブデュルハミト2世のもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けて新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。また、このときに新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のオスマン帝国の人々は遠い異国である日本と日本人に対し、好印象を抱いたといわれている。

山田寅次郎

茶道宗徧流の跡取りである山田寅次郎も、この事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。山田は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に集まった義捐金を携え、オスマン帝国の首都・イスタンブルに渡った。

山田が民間人ながら義捐金を持って訪れたことが知られるや彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でオスマン帝国に留まることを決意した山田はイスタンブルに貿易商店を開き、士官学校にて少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブル訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。山田が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされる。

山田がイスタンブル滞在中に起こった日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシア帝国から圧力を受け続けて同様にロシアの南下圧力にさらされる日本に対し、親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。日本海海戦時の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎提督にちなみ、トーゴーという名を子供につけることが流行したという。

日土国交

日本とオスマン帝国の外交当局による国交交渉は何度も行われたが、日本側が欧米列強と同等の待遇の条約を望んで治外法権を認めるよう要求したのに対し、オスマン帝国は不平等条約の拡大を嫌って両者の交渉が暗礁に乗り上げたため、オスマン帝国の滅亡まで正式な国交が結ばれることはなかった。

1914年大正3年)、第一次世界大戦が勃発するとドイツ帝国ら同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫し、山田はイスタンブルの店を閉鎖して日本へ帰国した。この戦争でイギリスら連合国の側についた日本はオスマン帝国とは敵同士となり、戦後のオスマン帝国の解体とトルコ共和国の成立という目まぐるしい情勢の変化を経て、1924年大正13年)発効のローザンヌ条約締結・1925年大正14年)の大使館開設により、日本政府とトルコ共和国政府は正式に国交を結んだ。

イラン・イラク戦争での逸話

日本人を運んだトルコ航空のDC-10イズミル号(機体記号TC-JAY)

1985年イラン・イラク戦争で、イラクは、イラン上空の航空機について、48時間後から無差別に攻撃すると宣言した。当時の日本国は、自衛隊による在外邦人救援ができなかった。日本で唯一国際線を運航していた日本航空も「安全の保証がされない限り臨時便は出さない」とし[14]、日本人がイランから脱出できない状況に陥った。日本の大使がトルコの大使に窮状を訴えたところ、トルコ航空は自国民救援のための旅客機を2機に増やした。215名の日本人はこれに分乗し、全員トルコのアタテュルク国際空港経由で無事に日本へ帰国できた[注釈 1][注釈 2]

この逸話は2002 FIFAワールドカップでのサッカートルコ代表チームの活躍を機に、テレビ番組や雑誌で取り上げられた。2004年にはこれを紹介した児童書が小学生高学年向けの読書感想文コンクール課題図書になった[注釈 3]2007年、エルトゥールル号回顧展[16]にあわせて東京都三鷹市の中近東文化センターでこの逸話に関するシンポジウムが開催され、当時の関係者[注釈 4]が出席した。

2015年ターキッシュ エアラインズは日本乗り入れに使用しているエアバスA330型機「KUSHIMOTO号」に、1985年当時のデザインの特別塗装を施した[注釈 5]

近年の日土交流

串本町は、トルコの2つの町と姉妹都市提携をしている[注釈 6]。樫野埼灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われている。事件から125年となった2015年には、トルコ海軍の軍艦ゲティズが下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町で行われた追悼式典に参加した[17]

2012年2月から3月にかけて日本の外務省がトルコの民間会社に委託して行った調査によると、トルコでエルトゥールルの遭難事件を「知っている」と回答したのは29.9%だった。同じ調査で、近年の日本の経済協力案件である第2ボスポラス大橋は44.9%、マルマライ計画は52.5%だった[18]

エルトゥールル号遭難事件を扱った作品

小説
  • 『海の翼』秋月達郎(2010年3月 新人物往来社新人物文庫 / 2014年7月 PHP文芸文庫)
  • 『トルコ軍艦エルトゥールル号の海難』オメル・エルトゥール著、山本雅男・植月惠一郎・久保陽子訳(2015年11月 彩流社
  • 『ブルーアウト』鈴木光司(2015年12月 小学館)
絵本
漫画
映画
音楽

脚注

注釈

  1. ^ トルコ機は、陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を優先。この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出することとなった。
  2. ^ その後、1994年自衛隊法が改正がされ、有事によって在外邦人を国外に脱出させる必要が生じた際には、外務省在外公館を通じて相手国の許可を得たうえで防衛大臣の指揮により、自衛隊の日本国政府専用機護衛艦によって在外邦人を輸送することになり、2013年アルジェリア人質事件では自衛隊による救出活動が行われた[15]。また、自衛隊は在外邦人輸送訓練を毎年行っている。
  3. ^ 第50回青少年読書感想文全国コンクールの小学校高学年の部(5・6年生)課題図書。木暮正夫/作、相澤るつ子/絵『救出 日本・トルコ友情のドラマ』(アリス館ISBN 4-7520-0254-X
  4. ^ 当該トルコ航空機の元機長、元客室乗務員、野村豊元駐イラン日本国特命全権大使、森永元伊藤忠商事イスタンブール支店長、毛利悟元東京銀行テヘラン駐在員ら。
  5. ^ この逸話をとりあげた映画『海難1890』の公開を記念してのもの。ターキッシュエア、30年前テヘラン救出便の特別塗装機 映画公開記念で Aviation Wire(2015年11月30日)
  6. ^ ヤカケント町と1964年から、メルスィン市と1975年から。国際交流 串本町

出典

  1. ^ 井上たかひこ『水中考古学 クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで』中央公論新社、2015年、133頁。ISBN 978-4-12-102344-5 
  2. ^ a b c d e 駐日土耳其國大使館『エルトグルル號』1937年。 
  3. ^ 厚生労働省神戸検疫所. “トピック > “明治150年”神戸検疫所の歴史年表を公開します。 > 神戸検疫所の歩み等” (PDF). 2019年12月5日閲覧。 “エルトゥールル号の乗員69名が和田岬消毒所で治療 (オスマン帝国(現在トルコ)の軍艦エルトゥールル号が和歌山沖で遭難し、600名近くが死亡した事件の生存者)”
  4. ^ 山田寅次郎 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞”. www.ifsa.jp. 2019年12月5日閲覧。
  5. ^ トルコ軍艦遭難慰霊碑 串本町
  6. ^ アブドゥッラー・ギュル・トルコ大統領の訪日
  7. ^ エルトゥールル号事件にはじまるトルコと串本町の友好
  8. ^ エルトゥールル号120年慰霊式典
  9. ^ 日本トルコ 時を越える絆 ~エルトゥールル号が繋ぐ友好の物語~
  10. ^ “船甲羅周辺で遺品多数 トルコ軍艦調査団”. 紀伊民報*++**. (2007年1月27日). オリジナルの2009年2月7日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20090207160122/http://www.agara.co.jp:80/modules/dailynews/article.php?storyid=118744 
  11. ^ “来年、遺品引き揚げ トルコ軍艦調査団”. 紀伊民報. (2007年1月27日). オリジナルの2009年2月7日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20090207160202/http://www.agara.co.jp:80/modules/dailynews/article.php?storyid=118787 
  12. ^ 串本町沖で沈没したエルトゥールル艦の引き上げプロジェクト、今月実施Milliyet(2007年1月5日)東京外国語大学による日本語訳
  13. ^ “1890年に沈没トルコ軍艦、錨はどこに?”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2010年1月8日). オリジナルの2013年8月28日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/D57O3 2010年1月8日閲覧。 
  14. ^ エルダル・ギュベン 『テヘラン脱出』 トルコ商工会議所、2008年。※非売品
  15. ^ 防衛省・自衛隊|平成26年版防衛白書 | 9 | 在外邦人等の輸送への対応”. 防衛省・自衛隊. 2018年10月18日閲覧。
  16. ^ 高橋忠久、長場紘、大村幸弘、松原茂樹 著、中近東文化センター附属博物館 編『エルトゥールル号回顧展 : 日本とトルコ友好のかけ橋 [Ertuğrul fırkateyni'nin mirası]』中近東文化センター附属博物館、三鷹市、2007年。全国書誌番号:21327997 
  17. ^ トルコ海軍のフリゲート艦「ゲディズ」が晴海埠頭に入港 THE PAGE 2015年6月5日
  18. ^ トルコにおける対日世論調査(結果概要)”. 外務省. 2012年5月22日閲覧。
  19. ^ エルトゥールル号の遭難
  20. ^ 平成25年度 社会保障審議会 児童福祉文化財 推薦作品一覧” (PDF). 厚生労働省. 2015年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  21. ^ 映画「海難1890」”. 「海難1890」製作委員会. 2015年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  22. ^ 究極の吹奏楽〜小編成vol.2『エルトゥールル号の記憶 - 太陽と新月の絆 -/清水大輔 - ロケットミュージック ORG-22 - YouTube

参考文献

  • 森修『トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難:日本・トルコ友好の偉大な礎石』(日本トルコ協会 1990年
  • 松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』(中公新書 1998年
  • 小松香織『オスマン帝国の近代と海軍』(山川出版社 世界史リブレット 2004年
  • 高橋忠久、長場紘、大村幸弘、松原茂樹他『エルトゥールル号回顧展:日本とトルコ友好のかけ橋』(中近東文化センター附属博物館 2007年
  • 山田邦紀、坂本俊夫『東の太陽、西の新月-日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』(現代書館 2007年)ISBN 978-4-7684-6958-3

関連項目

外部リンク