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'''山田 宗徧'''(やまだ そうへん、[[寛永]]4年([[1627年]]) - [[宝永]]5年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]([[1708年]][[5月21日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[茶道|茶人]]。[[宗偏流|宗徧流]]茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。
'''山田 宗徧'''(やまだ そうへん、[[寛永]]4年([[1627年]]) - [[宝永]]5年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]([[1708年]][[5月21日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[茶道|茶人]]。[[宗徧流]]茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年7月6日 (月) 21:58時点における版

山田 宗徧(やまだ そうへん、寛永4年(1627年) - 宝永5年4月2日1708年5月21日))は、江戸時代前期の茶人宗徧流茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。

生涯

寛永4年(1627年)、東本願寺末寺である京都上京二本松長徳寺の住職・明覚(長徳寺四世)の子として長徳寺に生まれた。母は山田監物(松江藩主・堀尾忠晴重臣)の娘。僧名は周学(しゅうがく)。父から寺の住職職を継いだが、還俗して茶道を志すようになり、小堀遠州に入門。さらに正保元年(1644年)、18歳のときに千宗旦に弟子入りする。承保元年(1652年)、宗旦の皆伝を受け、京都郊外の鳴滝村三宝寺に茶室を建てた。このお祝いに宗旦から千利休の伝来の品である四方釜を譲られた。また大徳寺の翠巌和尚からも「四方庵」の茶号を贈られている。

明暦元年(1655年)、千宗旦の推挙で三河国吉田藩愛知県豊橋市)主・小笠原忠知に茶道をもって30石5人扶持(100石格)で仕えるようになった。また長徳寺を離れるにあたって、母方の姓・山田をとって「山田宗徧家定」と改名している。父の明覚も山田道玄と改名した。この時すでに晩年であった千宗旦には利休以来の庵号「不審庵」及び宗旦の庵号「今日庵」の使用を許されている[1]。吉田で与えられた屋敷は今は豊橋公園(豊橋市今橋町)の一角となっている(現在、石碑が有る)。臨済寺(同市東田町)で参禅得道し、栽松庵を設けた。また、飯村(いむれ、同市飯村町)や小坂井(こざかい、豊川市小坂井町)に大名接待の茶屋を設立した。以降40年以上にわたり小笠原家に仕える。

元禄10年(1697年)、吉田小笠原家の職を二世宗引へ譲って吉田を去り、東海道江戸に下り、本所に居を構える。宗徧流茶道を興した。赤穂事件の際には、本所に屋敷替えになった高家吉良義央(義央も千宗旦の弟子の一人)から、しばしば吉良邸の茶会に招かれて出席している。そのため、脇屋新兵衛と変名した赤穂浪士大高忠雄が宗徧に弟子入りし、宗徧から「12月14日に吉良邸で茶会」という情報を聞きだして、討ち入り日を決定するのである。一説に山田宗徧は脇屋新兵衛の正体を知りながら赤穂浪士達の無念を思いやってわざと吉良邸茶会の日を教えたともいわれる。

宝永5年4月2日1708年5月21日)に江戸で死去。享年82。浅草本願寺中の願竜寺に葬られたが、遺言により墓石は建てていない。石灯竜と紅梅を残すも、前者は享保の大火で消失、後者は関東大震災で消失した。法名は不審庵周学宗徧居士。著書に『茶道便蒙抄』『茶道要録』などがある。

唯一の遺構とされる茶室「淇篆庵(きろくあん)」が愛知県岡崎市明願寺にある[2][3]

妻子

妻は生駒氏。三男一女であり、長男・宗倫は早世したが、次男・山田宗屋と三男・生駒権平宗俊は小笠原家に近習として仕えた。長女は吉田石塚大聖寺住職・清山に嫁ぎ、一男・永守を産んだとある。

登場する作品

脚注

  1. ^ 茶の湯テキストブック 宗徧流 十世家元山田宗徧 主婦の友社 ISBN 4-07-914496-2
  2. ^ 東海新聞社編纂『岡崎市戦災復興誌』岡崎市役所、1954年11月10日、1174-1175頁。 
  3. ^ 淇篆庵並水屋(きろくあんならびにみずや) | 文化財ナビ愛知

参考文献