「養浩館庭園」の版間の差分
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* [[松平昌親|松平吉品]] - 第7代福井藩藩主。養浩館庭園の造営を指示する<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82-83</ref>。 |
* [[松平昌親|松平吉品]] - 第7代福井藩藩主。養浩館庭園の造営を指示する<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82-83</ref>。 |
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* [[山田宗徧]] - 作庭の設計をしたと伝えられるが、残存する記録では関与した傍証が無いとされる<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.83</ref><ref>若越郷士研究第二二巻 六号(一二十七号) 福井県郷土誌懇談会</ref>。 |
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* 結城秀康 - 福井藩初代藩主<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82</ref>。 |
* 結城秀康 - 福井藩初代藩主<ref>重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82</ref>。 |
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2020年7月6日 (月) 21:55時点における版
養浩館庭園 Yokokan Garden | |
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庭園 | |
分類 | 回遊式林泉庭園 |
所在地 | |
面積 | 総面積 約9,500m2 |
前身 | 御泉水屋敷 |
駐車場 | 普通乗用車、バス |
バリアフリー | 車輪カバー(無料貸し出し)屋敷入口にスロープ設置 |
養浩館庭園(ようこうかんていえん)は、福井県福井市宝永3丁目にある日本庭園(大名庭園)。国の名勝に指定[1]されている。
概要
養浩館庭園は福井市の中心部にあり[2]、福井城本丸の北約400メートルの場所に位置している。
1922年(大正11年)、敷地内に宝永小学校が建てられた。1945年(昭和20年)7月19日の福井空襲で建物は焼失している。戦後の1947年(昭和22年)には宝永小学校が他所に移転し、跡地には福井市営テニスコートや1950年(昭和25年)から福井県立図書館が存在した。福井県立図書館は1981年(昭和56年)に福井市城東に移転し、2003年(平成15年)に現在地の福井市下馬町に移転している。
2004年(平成16年)には、足羽山から隣接地に新築移転となった福井市立郷土歴史博物館とともに、お泉水公園など周辺の整備が完了した。
米国の日本庭園専門雑誌『数寄屋リビング(ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング)』が毎年行っている日本庭園ランキングには、2006年以来[3]登場している。2008年から2010年にかけては3年連続で第3位に選ばれる[4]など、高い評価がなされている[5]。
歴史
- 現在の養浩館庭園の原型にあたるものは、江戸時代には福井藩主松平家の別邸として「御泉水(せんすい)屋敷」「泉水第」(せんすいだい)と呼ばれていた[6]。
- 資料上、確認できる最も古い記述では、1656年(明暦2年)に藩主松平光通の側室が、ここで子息(権蔵、のちの松平直堅)を産んだとされ、遅くともこの頃には御泉水屋敷が存在していた[7]。
- 現在の規模の建物と回遊式林泉庭園が完成したのは1699年(元禄12年)で、その後拡大と縮小を繰り返した。1708年(宝永5年)、藩主松平吉品が御泉水屋敷を改築し、同時に自らの隠居屋敷として敷地を増設した上で新建造物を増築したが、吉品死後に増築部分は縮小されたとされている。
- 1865年(慶応元)6月21日には、前藩主松平春嶽と夫人勇姫が「御泉水屋邸」に入り「月見御座敷」で食事をとったのち、ともに庭園を逍遥したことが記されている[8]。その後に隣接する家老本多修理邸も訪れており、この日のようすを詠んだ漢詩文が残されている[9]。
- 1884年(明治17)8月1日 松平春嶽によって、建物の呼称が「養浩館」と改称された[10]。
建物
現在の建物は、戦災で焼失した当時のものを復元したもの。
1871年(明治4年)の廃藩置県で、兵部省の管轄となる。 養浩館は、建築物の全体が池に囲まれていて、一部は、建築物に池の水がかぶさっていたり、建築物の下を池の水が渡っていて、庭園と建築物が具合よくつりあっていて、なじみやすくなるようにできている。
- 御風呂屋伝廊下[11]
- 軒高 1文4寸
- 御檀 5寸5分
- 天井高 9尺4寸5分
- 軒高 1文2尺5寸
庭園
養浩館は、園池が大規模であったことから、「御泉水屋敷」と呼ばれていた。回遊式の泉水で、亭と橋があり、風趣深く全国から奇石珍木を集めている。池には、多数の鯉などがゆらり泳いでいる。園池のほかに、石組や樹木などに四季折々の趣がある。養浩館は回遊式庭園であるため、その趣を感じながら散策することが可能である。明治時代には、大隈重信など、皇族のみならず、政界・財界・知名の士が来訪し、一般市民には、戦後に公開された。2016年(平成28年)には、アメリカの日本庭園専門誌ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニングが養浩館の庭園の調査を行い、「2016年日本庭園全国ランキング」で日本庭園第5位に選ばれた。
ギャラリー
関係する人物
- 松平吉品 - 第7代福井藩藩主。養浩館庭園の造営を指示する[12]。
- 山田宗徧 - 作庭の設計をしたと伝えられるが、残存する記録では関与した傍証が無いとされる[13][14]。
- 結城秀康 - 福井藩初代藩主[15]。
現地情報
所在地
アクセス
- JR西日本・えちぜん鉄道 福井駅から福井県庁(福井城本丸跡)を経由して徒歩約15分
- えちぜん鉄道 新福井駅から徒歩約10分
- 福井鉄道 仁愛女子高校駅から徒歩約10分
- 京福バス
- 「郷土歴史博物館」(下り)下車。
- 「教育センター」(上り)下車。
- 「養浩館口・江戸上町」下車。
- コミュニティバスすまいる
- 北ルート(田原・文京方面) 「江戸上町」下車。
- 北陸自動車道 福井ICまたは福井北ICより約6km
- 養浩館庭園専用の駐車場はなく、郷土歴史博物館の駐車場を利用することになる。
周辺
脚注
- ^ 養浩館(旧御泉水屋敷)庭園 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b 『北陸の庭園』橋本確文堂、2000年、14-15頁。
- ^ “Sukiya Living Environment Rankings 2006 数寄屋生活空間 2006年度順位”. 2016年6月1日閲覧。
- ^ 3年連続でJOJGランキング第3位に! - 養浩館庭園
- ^ “Sukiya Living Environment Rankings 数寄屋生活空間 順位 (2015年12月発表)”. 2016年6月1日閲覧。
- ^ 舟澤茂樹「御泉水邸『養浩館』の沿革について」『若越郷土研究』22-5、1977年10月
- ^ 井上翼章が1781年(天明元)に著した『越藩史略』(1975年)では、万治元年の事項として掲載されている(P.162)
- ^ 「御側向頭取御用日記」松平文庫A0143-00522、福井県立図書館保管
- ^ 「六有堂詩稿」松平文庫A0143-21539~21540、福井県立図書館保管
- ^ 『越前松平家家譜 慶永5』福井県文書館資料叢書8 2011年3月発行
- ^ 福井建築史研究会『御泉水第の建築的研究』福井建築史研究会、1987年、11-12頁。
- ^ 重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82-83
- ^ 重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.83
- ^ 若越郷士研究第二二巻 六号(一二十七号) 福井県郷土誌懇談会
- ^ 重森三玲・重森完途 日本庭園史大系/第二十四回配本 第十六巻・江戸初期の庭(三) P.82
参考文献
- 福井建築史研究会『御泉水第の建築的研究』福井建築史研究会、1987年
- 井原縁『47都道府県・公園・庭園百科』丸善出版、2017年
- 堀江喜熊『宝永のかおり』佐々木悠、1968年
- 松原信之『福井県謎解き散歩』新人物往来社、2012年
- インク・インコーポレーション『庭園さんぽ』グラフィック社、2012年
- 『北陸の庭園』橋本確文堂、2000年
- 福井市教育委員会『福井城跡Ⅹ』福井市教育委員会』、2012年
- 福井市『D名勝養浩館庭Dの魅力』福井市、2016年
- 福井市教育委員会『名勝養浩館(旧御泉水屋敷)庭園保存活用計画』福井市教育委員会、2016年
外部リンク
座標: 北緯36度4分6.6秒 東経136度13分27.9秒 / 北緯36.068500度 東経136.224417度