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{{出典の明記|date=2019年8月15日 (木) 11:06 (UTC)|ソートキー=人1799年没}}
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'''酒井 忠言'''(さかい ただのぶ、[[宝暦]]6年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]([[1756年]][[2月13日]]) - [[寛政]]11年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1799年]][[3月27日]]))は、[[越前国|越前]][[敦賀藩]]の第5代藩主。忠稠系[[小浜藩]]酒井家別家5代。第4代藩主・[[酒井忠香]]の四男。母は[[水野忠定]]の娘。正室は[[三浦明次]]の娘。子は[[酒井忠え|酒井忠藎]](長男)、[[酒井忠邁]](三男)、娘([[戸田光陽]]正室)。官位は従五位下。[[相模国|相模]]守。
'''酒井 忠言'''(さかい ただのぶ、[[宝暦]]6年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]([[1756年]][[2月13日]]) - [[寛政]]11年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[1799年]][[3月27日]]))は、[[越前国|越前]][[敦賀藩]]の第5代藩主。忠稠系[[小浜藩]]酒井家別家5代。第4代藩主・[[酒井忠香]]の四男。母は[[水野忠定]]の娘。正室は[[三浦明次]]の娘。子は[[酒井忠藎]](長男)、[[酒井忠邁]](三男)、娘([[戸田光陽]]正室)。官位は従五位下。[[相模国|相模]]守。


四男だったが、長兄・忠恕が夭逝、次兄・[[酒井忠節|忠節]]が病弱のため廃嫡、三兄([[水谷勝政]])も[[水谷勝久]]の養子に出されたため、[[安永]]3年([[1774年]])5月、父から後継者に指名された。[[天明]]8年([[1788年]])8月20日、父の隠居により家督を譲られる。[[大番頭]]などを務めた。寛政9年([[1797年]])11月25日、家督を長男・[[酒井忠え|酒井忠藎]]に譲って隠居し、寛政11年(1799年)2月22日、44歳で死去した。
四男だったが、長兄・忠恕が夭逝、次兄・[[酒井忠節|忠節]]が病弱のため廃嫡、三兄([[水谷勝政]])も[[水谷勝久]]の養子に出されたため、[[安永]]3年([[1774年]])5月、父から後継者に指名された。[[天明]]8年([[1788年]])8月20日、父の隠居により家督を譲られる。[[大番頭]]などを務めた。寛政9年([[1797年]])11月25日、家督を長男・[[酒井忠藎]]に譲って隠居し、寛政11年(1799年)2月22日、44歳で死去した。


{{敦賀藩主|5代|1788年 - 1797年}}
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2020年7月5日 (日) 05:30時点における版

酒井 忠言(さかい ただのぶ、宝暦6年1月14日1756年2月13日) - 寛政11年2月22日1799年3月27日))は、越前敦賀藩の第5代藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家5代。第4代藩主・酒井忠香の四男。母は水野忠定の娘。正室は三浦明次の娘。子は酒井忠藎(長男)、酒井忠邁(三男)、娘(戸田光陽正室)。官位は従五位下。相模守。

四男だったが、長兄・忠恕が夭逝、次兄・忠節が病弱のため廃嫡、三兄(水谷勝政)も水谷勝久の養子に出されたため、安永3年(1774年)5月、父から後継者に指名された。天明8年(1788年)8月20日、父の隠居により家督を譲られる。大番頭などを務めた。寛政9年(1797年)11月25日、家督を長男・酒井忠藎に譲って隠居し、寛政11年(1799年)2月22日、44歳で死去した。