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'''藤田 貞資'''(ふじた さだすけ、[[享保]]19年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]([[1734年]][[10月12日]]) - [[文化 (元号)|文化]]4年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]([[1807年]][[9月7日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[和算家]]である。定資、定賢とも。通称は彦太夫、後に權平と改める。字は子證、雄山と号す。 |
'''藤田 貞資'''(ふじた さだすけ、[[享保]]19年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]([[1734年]][[10月12日]]) - [[文化 (元号)|文化]]4年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]([[1807年]][[9月7日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[和算家]]である。定資、定賢とも。通称は彦太夫、後に權平と改める。字は子證、雄山と号す。 |
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[[武蔵国]][[男衾郡]]本田村(現[[埼玉県]][[深谷市]])の本田家に生まれ、後に藤田定之の養子となる。[[宝暦]]12年([[1762年]])28歳の時に[[山路主住]]の作暦手伝となるが、[[明和]]4年([[1767年]])に眼病のため[[天文方]]手伝を退いた。翌年、[[久留米藩]]主で関流の和算家でもある[[有馬頼徸]]に召抱えられ二十人扶持を受けた。門人の神谷定令と共に主著『精要算法』を巡って[[会田安明]]と論争した。文化4年(1807年)病のため致仕、同年74歳で没している。 |
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山路主住の高弟として天下第一人と称されており、ライバルである会田安明も「定資を讃えて海内の一人と云えり」と記している。しかし同門の[[安島直円]]が独創的な研究成果を残している一方で、藤田の研究業績はさして見るべきものがないと評されている。 |
山路主住の高弟として天下第一人と称されており、ライバルである会田安明も「定資を讃えて海内の一人と云えり」と記している。しかし同門の[[安島直円]]が独創的な研究成果を残している一方で、藤田の研究業績はさして見るべきものがないと評されている。 |
2020年7月5日 (日) 05:25時点における版
藤田 貞資(ふじた さだすけ、享保19年9月16日(1734年10月12日) - 文化4年8月6日(1807年9月7日))は、江戸時代中期の和算家である。定資、定賢とも。通称は彦太夫、後に權平と改める。字は子證、雄山と号す。
武蔵国男衾郡本田村(現埼玉県深谷市)の本田家に生まれ、後に藤田定之の養子となる。宝暦12年(1762年)28歳の時に山路主住の作暦手伝となるが、明和4年(1767年)に眼病のため天文方手伝を退いた。翌年、久留米藩主で関流の和算家でもある有馬頼徸に召抱えられ二十人扶持を受けた。門人の神谷定令と共に主著『精要算法』を巡って会田安明と論争した。文化4年(1807年)病のため致仕、同年74歳で没している。
山路主住の高弟として天下第一人と称されており、ライバルである会田安明も「定資を讃えて海内の一人と云えり」と記している。しかし同門の安島直円が独創的な研究成果を残している一方で、藤田の研究業績はさして見るべきものがないと評されている。
参考文献
- 日本学士院編『明治前日本数学史 新訂版 第四巻』1979年
- 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
- 川北朝鄰: 關夫子以降本朝數學の進歩竝に學戰, 東京數學物理學會『本朝數學通俗講演集: 關孝和先生二百年忌記念』, 大日本圖書, 明治41年