「清水親知」の版間の差分
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天保14年(1843年)6月9日長州藩清水氏分家清水図書信篤の子として萩に生まれる。[[安政]]2年([[1855年]])本家[[清水親春|清水美作親春]]の養子に迎えられる。[[文久]]元年(1861年)[[大橋訥庵]]に師事し、文久3年(1863年)3月[[学習院 (幕末維新期)|学習院]]用掛を勤め同年8月藩制改革後により22歳にして国元加判役(家老格)に抜擢される。 |
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元治元年(1864年)4月には[[津和野藩|津和野]]・[[鳥取藩|鳥取]]・[[岡山藩|岡山]]ら諸藩を巡廻して[[八月十八日の政変]]により処罰された藩主父子の雪冤を働きかけ、6月に領内で藩兵が不満を募らせると周布政之助とともに鎮撫のために奔走した。しかし7月に[[禁門の変]]が失敗に終わると更迭され謹慎。[[高杉晋作]]が挙兵すると報復処刑として12月25日俗論派の藩命により切腹。[[黄檗宗東光寺]]の元治甲子殉難烈士墓所に[[福原元 |
元治元年(1864年)4月には[[津和野藩|津和野]]・[[鳥取藩|鳥取]]・[[岡山藩|岡山]]ら諸藩を巡廻して[[八月十八日の政変]]により処罰された藩主父子の雪冤を働きかけ、6月に領内で藩兵が不満を募らせると周布政之助とともに鎮撫のために奔走した。しかし7月に[[禁門の変]]が失敗に終わると更迭され謹慎。[[高杉晋作]]が挙兵すると報復処刑として12月25日俗論派の藩命により切腹。[[黄檗宗東光寺]]の元治甲子殉難烈士墓所に[[福原元僴]]・[[益田親施]]・[[国司親相]]・[[周布政之助]]・[[甲子殉難十一烈士]]と共に祀られている。法名「仁沢院殿向山義雄」。 |
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== 清水清太郎 == |
== 清水清太郎 == |
2020年7月5日 (日) 05:24時点における版
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 天保14年6月9日(1843年7月6日) |
死没 | 元治元年12月25日(1865年1月22日) |
別名 | 字:子済、通称:清太郎、勘太郎、与右衛門、号:葭堂 |
戒名 | 仁沢院殿向山義雄 |
主君 | 毛利氏 |
父母 | 清水信篤、養父:清水親春 |
清水 親知(しみず ちかとも、天保14年6月9日(1843年7月6日) - 元治元年12月25日(1865年1月22日))は、江戸時代末期の長州藩正義派の代表的家老。通称は清太郎、字は子済、号は葭堂。備中高松城の戦いで知られる清水宗治十二代の子孫。
生涯
天保14年(1843年)6月9日長州藩清水氏分家清水図書信篤の子として萩に生まれる。安政2年(1855年)本家清水美作親春の養子に迎えられる。文久元年(1861年)大橋訥庵に師事し、文久3年(1863年)3月学習院用掛を勤め同年8月藩制改革後により22歳にして国元加判役(家老格)に抜擢される。
元治元年(1864年)4月には津和野・鳥取・岡山ら諸藩を巡廻して八月十八日の政変により処罰された藩主父子の雪冤を働きかけ、6月に領内で藩兵が不満を募らせると周布政之助とともに鎮撫のために奔走した。しかし7月に禁門の変が失敗に終わると更迭され謹慎。高杉晋作が挙兵すると報復処刑として12月25日俗論派の藩命により切腹。黄檗宗東光寺の元治甲子殉難烈士墓所に福原元僴・益田親施・国司親相・周布政之助・甲子殉難十一烈士と共に祀られている。法名「仁沢院殿向山義雄」。
清水清太郎
幕末には3人の清水清太郎が登場する。一人目は本項の清水清太郎親知、二人目は養父である清水清太郎親春、三人目は島根県宇龍港で前原一誠を捕縛した島根県吏。
参考文献
- 「明治維新人名辞典」