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|[[藤原嬉子|嬉子]]||後朱雀女御(皇太后)、後冷泉母||万寿2年8月5日||船岡の西野に火葬、木幡納骨
|[[藤原嬉子|嬉子]]||後朱雀女御(皇太后)、後冷泉母||万寿2年8月5日||船岡の西野に火葬、木幡納骨

2020年7月4日 (土) 02:19時点における版

宇治陵
宇治陵1号
所在地 宇治市木幡
築造時期 9世紀
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宇治陵(うじりょう[1]、うじのみささぎ)は、京都府宇治市にある古墳群と、藤原氏とその関係者の陵墓群である。地蔵山および御蔵山に散在する古墳群を総称したもの[2]

概要

地蔵山及びその北側浄妙寺山の南北約1.8キロ、東西0.9キロ、総面積89,332平方メートルに点在する大小320もの陵墓群である。明治10年に宮内庁によって調査され17陵3墓を木幡陵と定められたが、後に宇治陵とし1号から37号までの番号が付けられた[3][4]。古墳時代の5-6世紀の円墳・前方後円墳があるとともに、元慶年間(877年-885年)から長寛2年(1164年)の藤原冬嗣・基経・時平・道長・頼通などと、藤原家から入内した中宮などの女性の埋葬地とされている[5][6]

1号陵は総遙拝所に当てている。

23号陵は90余の墳塚のある丘陵全体を1陵としている変則陵墓となっている[7]

35号陵が藤原時平、36号陵が藤原基経の墓といわれるが、誰がどこに被葬されているかは特定されていない[8]

一覧

古墳群

陵墓被葬者一覧

天皇との続柄 崩薨年月日 備考
温子 宇多女御(皇太夫人)、醍醐養母 延喜7年6月8日 深草山に火葬
穏子 醍醐皇后、朱雀・村上母 天暦8年1月4日 鳥部野に火葬
安子 村上皇后、冷泉・円融母 康保元年4月29日 愛宕群の東南の野に火葬
懐子 冷泉女御(皇太后)、花山母 天延3年4月3日
媓子 円融皇后 天元2年6月3日 鳥部野に火葬
超子 冷泉女御(皇太后)、三条母 天元5年1月28日
詮子 円融女御(皇太后)、一条母 長保3年閏12月22日 鳥部野に火葬、宇治山納骨
遵子 円融皇后 寛仁元年6月1日 般若寺の東北に火葬、翌年木幡納骨
娍子 三条皇后 万寿2年3月25日 雲林院西院の西北に火葬、翌年木幡納骨
嬉子 後朱雀女御(皇太后)、後冷泉母 万寿2年8月5日 船岡の西野に火葬、木幡納骨
妍子 三条皇后 万寿4年9月14日 大峯寺の前野に火葬、木幡納骨
威子 後一条皇后 長元9年9月6日 桜本に火葬
茂子 後三条女御 康平5年6月22日
彰子 一条皇后、後一条・御朱雀母 承保元年10月3日 大谷口に火葬
歓子 後冷泉皇后 康和5年1月25日 鳥部野に火葬
苡子 堀河女御(皇太后)、鳥羽母 康和5年1月25日 鳥部野に火葬、木幡納骨
寛子 後冷泉皇后 大治2年8月14日 一坂東辺(宇治南)に火葬、木幡納骨
敦実親王 宇多皇子、母胤子 康保4年3月2日 (墓)
敦道親王 冷泉皇子、母超子 寛弘4年10月2日 (墓)
生子 御朱雀女御 治暦4年8月21日 (墓)

[9]

ギャラリー

交通アクセス

補注

注釈

出典

  1. ^ 下中邦彦 『日本歴史地名大系第二十六巻い 京都府の地名 1981年 p226』
  2. ^ 竹村俊則 『昭和京都名所図会』1989年
  3. ^ 『山陵、巡陵紀程』大正14年 p8
  4. ^ 竹村俊則 『昭和京都名所図会』1989年 p23
  5. ^ 下中邦彦『日本歴史地名体系 京都府の地名』1981年 p226
  6. ^ 竹村俊則 『昭和京都名所図会』1989年 p22-23
  7. ^ 下中邦彦 編 『日本歴史地名大系第26巻 京都府の地名』1981年 p226
  8. ^ 納屋嘉治 『京都大辞典 府域編』 1994年 p71
  9. ^ 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第二巻』昭和55年 p82

参考文献

関連項目

外部リンク