「世尊寺行能」の版間の差分
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[[天福 (日本)|天福]]元年([[1233年]])、[[四条天皇]]の[[大嘗会]]における悠紀主基屏風色紙形の清書を行能が担当することになったが、行能はそこに記す和歌に自作のものを採用するように願った。和歌は当代を代表する歌人が詠むものとされ、清書役が詠んだ先例がないためにこのことが問題視されたが、[[藤原定家]]が行能の和歌にはそれだけの才能があること、世尊寺家は代々色紙形を書く時に備えて歴代の色紙形を練習に用いているので問題はないと行能を推挙している。[[文暦]]元年([[1234年]])には、自身の和歌も採録された『[[新勅撰和歌集]]』の清書を担当する。 |
2020年7月3日 (金) 22:38時点における版
世尊寺 行能(せそんじ ゆきよし、治承3年(1179年) - 建長7年(1255年)[1]?)は、鎌倉時代前期の公卿・能書家・歌人。太皇太后宮亮・藤原伊経の長男。母は法橋増宗の娘。法号は寂然。世尊寺家の第8代目当主。「世尊寺」の家名は行能の代より用いられたとされている。官位は従三位・右京大夫。
経歴
建仁元年(1201年)叙爵。能書家として名高く、また九条道家の信任を受けた。寛喜元年(1229年)、道家は娘竴子の入内の際に用いる屏風の色紙形作成の功労などを賞して、美作国にあった蓮華王院領の一部を行能に与えた[2]。また、鎌倉幕府とも関係が深く、東国に下った時に詠んだ和歌が『続古今和歌集』に所収されている。
天福元年(1233年)、四条天皇の大嘗会における悠紀主基屏風色紙形の清書を行能が担当することになったが、行能はそこに記す和歌に自作のものを採用するように願った。和歌は当代を代表する歌人が詠むものとされ、清書役が詠んだ先例がないためにこのことが問題視されたが、藤原定家が行能の和歌にはそれだけの才能があること、世尊寺家は代々色紙形を書く時に備えて歴代の色紙形を練習に用いているので問題はないと行能を推挙している。文暦元年(1234年)には、自身の和歌も採録された『新勅撰和歌集』の清書を担当する。
嘉禎2年(1236年)には従三位に叙せられたが、これは世尊寺家の3代目藤原伊房が失脚して以来、約150年ぶりの世尊寺家からの三位叙位となった。仁治元年(1240年)に出家、家を養子の経朝(広橋頼資の子)に譲った。
勅撰歌人として、『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に47首が採録されている[3]。
脚注
参考文献
- 新川晴風「藤原行能」(『書道辞典』(東京堂出版、1983年) ISBN 978-4-490-10087-7)
- 宮崎肇「中世書流の成立 -世尊寺家と世尊寺流-」(所収:鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究3 鎌倉期社会と史料論』(東京堂出版、2002年) ISBN 978-4-490-20469-8)