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「洞院実雄」の版間の差分

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洞院実子の名は尊卑分脈単体ではなく本朝皇胤紹運録との照合によるもの
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2020年7月3日 (金) 22:35時点における版

 
洞院実雄
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 承久元年(1219年
死没 文永10年8月16日1273年9月28日
改名 実雄→浄覚(法号)
別名 山階左大臣
官位 従一位左大臣
主君 四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 西園寺家洞院家
父母 父:西園寺公経、母:平親宗
兄弟 西園寺倫子西園寺実氏一条実有
実雄、道融、四辻実藤西園寺実材
三条実親室、女子、西園寺成子、実意、実助、尊恵、実顕、行安、慈助、実勝、西園寺嘉子、西園寺公子
正室:公審娘・栄子
継室:一条頼氏藤原隆房娘・蔵子賀茂能直娘・後嵯峨院但馬局
主殿司瑠璃娘
公宗小倉公雄、守恵、佶子愔子
公守季子、禖子、慈順、公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、
近衛基平室、鷹司基忠室、
西園寺公蔭室、三条公親室、実子
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洞院 実雄(とういん さねお)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿太政大臣西園寺公経の子。官位従一位左大臣山階左大臣と号す。洞院家の祖。

娘3人がそれぞれ3人の天皇(亀山天皇後深草天皇伏見天皇)の妃となって権勢を誇った。娘たちはいずれも皇子を産み、それぞれ即位したことから、3人の天皇(後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇)の外祖父となった。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

嘉禄3年(1227年)2月1日、叙爵。同年3月4日、侍従に任ぜられる。安貞3年(1229年)1月30日、従五位上に昇叙。同年4月18日、左少将に任ぜられる。寛喜2年(1230年)1月24日、備後介を兼ねる。寛喜3年(1231年)1月5日、正五位下に昇叙。文暦元年(1234年)12月21日、左中弁に任ぜられる。左少将は元の如し。文暦2年(1235年)1月23日、加賀権介を兼ねる。同月28日、従四位上に昇叙。同年2月6日には禁色を許され、閏6月11日には左宮城使に補される。

嘉禎2年(1236年)2月30日、左中弁を止め左中将に任ぜられ蔵人頭となる。同年5月6日、正四位下に昇叙。同年12月18日、従三位に叙される。中将は元の如し。

嘉禎3年(1237年)1月24日、土佐権守を兼ねる。同年12月25日、参議に任ぜられる。嘉禎4年(1238年)3月7日、右衛門督検非違使別当を兼ねる。同月29日、正三位に昇叙。同年7月20日、権中納言に昇進し、8月28日には右衛門督と検非違使別当を辞した。暦仁2年(1239年)1月24日、皇后宮権大夫を兼ねるが、11月12日に皇后利子内親王が女院(式乾門院)となったために権大夫を止める。仁治元年(1240年)10月24日、従二位に昇叙。仁治3年(1242年)3月7日、権大納言に昇進。仁治4年(1243年)2月2日、正二位に昇叙。寛元2年(1244年)8月29日、父・公経が薨去したために喪に服す。同年11月25日に復任。

正嘉元年(1257年)11月26日、内大臣に任ぜられる。正嘉2年(1258年)11月1日、右大臣に転任し春宮傅を兼ねる。弘長元年(1261年)3月27日、左大臣に転任。弘長2年(1262年)1月5日、従一位に昇叙。弘長3年(1263年)3月20日、上表して左大臣を辞した。文永10年(1273年)8月4日、所労危急のため出家し、同月16日に薨去。

系譜

尊卑分脈[1]による。

脚注

参考文献

先代
-
洞院家当主
初代
次代
洞院公守