「田代秋鶴」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
4行目: | 4行目: | ||
[[長野県]][[東筑摩郡]][[片丘村]](現在の[[塩尻市]]片丘)に生まれた。1899年、16歳で教員試験に合格して塩尻小学校に奉職した後、1903年に[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]師範科を卒業、[[東京市]][[文京区立誠之小学校|誠之小学校]]に勤務した。 |
[[長野県]][[東筑摩郡]][[片丘村]](現在の[[塩尻市]]片丘)に生まれた。1899年、16歳で教員試験に合格して塩尻小学校に奉職した後、1903年に[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]師範科を卒業、[[東京市]][[文京区立誠之小学校|誠之小学校]]に勤務した。 |
||
書家としては1904年に[[丹羽海鶴]]に入門し、その後[[ |
書家としては1904年に[[丹羽海鶴]]に入門し、その後[[巖谷一六]]、[[日下部鳴鶴]]、[[比田井天来]]らの影響を受けて[[六朝]]書や[[顔真卿]]の書法を研究し、その書風は「古厚蒼勁にして閑雅」と評された。1907年に[[二松學舍]](現[[二松學舍大学]])に入学。その後[[東京高等師範学校]]講師、[[日本の書道史#文部省教員検定試験|文部省教員検定試験]](文検)検定委員、[[日本の書道史#興亜書道連盟|興亜書道連盟]]理事・総務を務めた。1946年9月には全国の書家を東京第一師範学校に集め、書作展研究会を開催した。 |
||
;突然の不幸 |
;突然の不幸 |
2020年7月3日 (金) 06:25時点における版
田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日-1946年12月13日)は、日本の書家。名は其次、字は信仁。秋鶴は号で、別号に五千石道人がある。
略歴
長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市片丘)に生まれた。1899年、16歳で教員試験に合格して塩尻小学校に奉職した後、1903年に東京音楽学校師範科を卒業、東京市誠之小学校に勤務した。
書家としては1904年に丹羽海鶴に入門し、その後巖谷一六、日下部鳴鶴、比田井天来らの影響を受けて六朝書や顔真卿の書法を研究し、その書風は「古厚蒼勁にして閑雅」と評された。1907年に二松學舍(現二松學舍大学)に入学。その後東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験(文検)検定委員、興亜書道連盟理事・総務を務めた。1946年9月には全国の書家を東京第一師範学校に集め、書作展研究会を開催した。
- 突然の不幸
空襲によって文京区伝通院の住居が被災したため、戦後は池袋に住まいを移して生活の再建に取りかかっていたが、その最中の1946年12月13日の晩に自宅に泥棒が侵入、これを取り押さえようとして格闘した結果、腹部を日本刀で刺され、絶命。享年63だった。
その他
著書
- 田代秋鶴『法帖研究教育書道要説』賢文館、1937年
関連事項
参考文献
- 奥山錦洞『日本書道史(覆刻版)』藤森書店、1982年
- 上條信山『硯上の塵―信山自伝―』展望社、2002年