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[[弘化]]4年(1847年)、[[徳島藩|徳島]]出身の[[古医方]]松邨春岱(まつむらしゅんたい)の長女として[[大坂]][[難波]]に生まれる。[[幕末]]期にあたる幼少時から[[漢詩|詩]]・[[書]]・[[文人画|画]]に親しみ才能を示す。両親は小蘋を画業に就かせるため[[安政]]元年(1854年)、8歳のときに[[四条派]]の[[石垣東山]]に入門させた。[[文久]]2年(1862年)、16歳で画の修行のため父と北陸を数ヶ月にわたり巡遊。このとき[[福井藩]]の絵師[[島田雪谷]]から画の手解きを受けている<ref> 幼少時から「玉山」と号し作品も残しているが、いずれも本格的な学習であったかは疑問視されている。</ref>。この北陸の旅の途次、父の春岱が客死。残された母を養うために[[慶応]]元年(1865年)に[[近江八幡市|近江八幡]]へ遊歴し売画している。
[[弘化]]4年(1847年)、[[徳島藩|徳島]]出身の[[古医方]]松邨春岱(まつむらしゅんたい)の長女として[[大坂]][[難波]]に生まれる。[[幕末]]期にあたる幼少時から[[漢詩|詩]]・[[書]]・[[文人画|画]]に親しみ才能を示す。両親は小蘋を画業に就かせるため[[安政]]元年(1854年)、8歳のときに[[四条派]]の[[石垣東山]]に入門させた。[[文久]]2年(1862年)、16歳で画の修行のため父と北陸を数ヶ月にわたり巡遊。このとき[[福井藩]]の絵師[[島田雪谷]]から画の手解きを受けている<ref> 幼少時から「玉山」と号し作品も残しているが、いずれも本格的な学習であったかは疑問視されている。</ref>。この北陸の旅の途次、父の春岱が客死。残された母を養うために[[慶応]]元年(1865年)に[[近江八幡市|近江八幡]]へ遊歴し売画している。


慶応3年(1867年)には[[京都]]へ移り、関西[[南画]]壇の重鎮である[[日根対山]]<ref>小蘋は後に甲府商家野口家に嫁ぎ、野口家は多くの文人画家を庇護した甲府商家大木家とも親しく、小蘋自身も後に大木家に滞在し作品を残している。甲府城下横近習町在住の南画家[[竹邨三陽]]の門人には小蘋の兄弟子にあたる[[中丸精十郎]]や[[三枝雲岱]]など江戸後期から明治初期の山梨県画壇の中心的人物がおり、彼らは師の三陽を通じて対山門人になったという。こうした人脈から甲州画家と対山には縁があり、大木コレクションには小蘋や精十郎、雲岱、対山、三陽らの作品が体系的に残されている。</ref>に師事し、4年の間に[[山水画]]・[[花鳥画]]を学んだ。また対山を通じて[[日下部鳴鶴]]・[[谷一六]]・[[長三洲]]・[[川田甕江]]、実業家で煎茶好事家の[[奥蘭田]]など多くの[[文人]]と知己となる。この頃から「小蘋」を名乗っている。このころ関西[[浮世絵]]などにも啓発を受けている。画の修行の傍らで[[小林卓斎]]に就いて[[経学]]を修めた。
慶応3年(1867年)には[[京都]]へ移り、関西[[南画]]壇の重鎮である[[日根対山]]<ref>小蘋は後に甲府商家野口家に嫁ぎ、野口家は多くの文人画家を庇護した甲府商家大木家とも親しく、小蘋自身も後に大木家に滞在し作品を残している。甲府城下横近習町在住の南画家[[竹邨三陽]]の門人には小蘋の兄弟子にあたる[[中丸精十郎]]や[[三枝雲岱]]など江戸後期から明治初期の山梨県画壇の中心的人物がおり、彼らは師の三陽を通じて対山門人になったという。こうした人脈から甲州画家と対山には縁があり、大木コレクションには小蘋や精十郎、雲岱、対山、三陽らの作品が体系的に残されている。</ref>に師事し、4年の間に[[山水画]]・[[花鳥画]]を学んだ。また対山を通じて[[日下部鳴鶴]]・[[谷一六]]・[[長三洲]]・[[川田甕江]]、実業家で煎茶好事家の[[奥蘭田]]など多くの[[文人]]と知己となる。この頃から「小蘋」を名乗っている。このころ関西[[浮世絵]]などにも啓発を受けている。画の修行の傍らで[[小林卓斎]]に就いて[[経学]]を修めた。


[[明治]]4年(1871年)に[[東京|上京]]、[[麹町]]に住んで画業を本格化。[[美人画]]や[[文人]]の[[肖像画]]などの[[人物画]]を多く手がけている。明治6年(1873年)、皇后御寝殿に花卉図8点を手がけている。画業の傍らで[[岡本黄石]]に[[漢詩|詩文]]を学んでいる。[[1875年]](明治8年)には甲府で小蘋の肖像写真が撮影されており、これは明治初期の山梨県における[[写真]]撮影の事例としても知られる。
[[明治]]4年(1871年)に[[東京|上京]]、[[麹町]]に住んで画業を本格化。[[美人画]]や[[文人]]の[[肖像画]]などの[[人物画]]を多く手がけている。明治6年(1873年)、皇后御寝殿に花卉図8点を手がけている。画業の傍らで[[岡本黄石]]に[[漢詩|詩文]]を学んでいる。[[1875年]](明治8年)には甲府で小蘋の肖像写真が撮影されており、これは明治初期の山梨県における[[写真]]撮影の事例としても知られる。

2020年7月3日 (金) 06:24時点における版

野口小蘋肖像

野口 小蘋(のぐち しょうひん、弘化4年1月11日1847年2月25日) - 大正6年(1917年2月17日)は明治期から大正期に活躍した南画家日本画家奥原晴湖とともに明治の女流南画家の双璧といわれた。

名は親子(ちかこ)、は清婉。同じく南画家の野口小蕙は娘。

略歴

「青緑春山僊陰山水図」 絹本著色 嘯月美術館蔵 明治30年(1897年)
美人図

弘化4年(1847年)、徳島出身の古医方松邨春岱(まつむらしゅんたい)の長女として大坂難波に生まれる。幕末期にあたる幼少時からに親しみ才能を示す。両親は小蘋を画業に就かせるため安政元年(1854年)、8歳のときに四条派石垣東山に入門させた。文久2年(1862年)、16歳で画の修行のため父と北陸を数ヶ月にわたり巡遊。このとき福井藩の絵師島田雪谷から画の手解きを受けている[1]。この北陸の旅の途次、父の春岱が客死。残された母を養うために慶応元年(1865年)に近江八幡へ遊歴し売画している。

慶応3年(1867年)には京都へ移り、関西南画壇の重鎮である日根対山[2]に師事し、4年の間に山水画花鳥画を学んだ。また対山を通じて日下部鳴鶴巖谷一六長三洲川田甕江、実業家で煎茶好事家の奥蘭田など多くの文人と知己となる。この頃から「小蘋」を名乗っている。このころ関西浮世絵などにも啓発を受けている。画の修行の傍らで小林卓斎に就いて経学を修めた。

明治4年(1871年)に上京麹町に住んで画業を本格化。美人画文人肖像画などの人物画を多く手がけている。明治6年(1873年)、皇后御寝殿に花卉図8点を手がけている。画業の傍らで岡本黄石詩文を学んでいる。1875年(明治8年)には甲府で小蘋の肖像写真が撮影されており、これは明治初期の山梨県における写真撮影の事例としても知られる。

明治10年(1877年)、31歳で野口正章と結婚、翌年に娘の小蕙が生まれる。正章も対山の門弟であった。野口家はいわゆる近江商人の家柄で滋賀県蒲生郡桜川村(現・東近江市)に本家を置く酒造業「十一屋」を営み、甲府柳町(現・甲府市中央4丁目(大正13年に甲府市横沢町(現・朝日3丁目)に移転)に営業所と醸造工場があった。義父の野口正忠(柿邨)は自身も漢詩を読む文化人で、大木家当主と同じく著名な文人達と交流し、伊藤聴秋依田学海杉聴雨矢土錦山市河得庵小野湖山谷如意江馬天江富岡鉄斎谷口藹山瀧和亭田能村直入川村雨谷村田香谷など、当代一流の文人との交流が生まれた。

小蘋は明治8年から野口家とも親交のあった甲府横近習町の商家である大木家に滞在しており、明治11年(1879年)には一家で甲府へ移っている。甲府では奇観で知られる御岳昇仙峡も描いた作品などを製作しており、商標図案や贈答物の絵付などを手がけ野口家の商売にも携わっている。こうした縁で、大木家の美術コレクションである大木家資料(大木コレクション)には数多くの小蘋作品が含まれている。

夫の正章は新しい事業としてビール醸造に着手していた事業に失敗して廃嫡となり、明治15年(1882年)には一家で再び上京する。小蘋の画才は日本画の復興運動に際して注目され、数々の博覧会[3]や共進会[4]で入賞し関東南画を代表する画家と評されるようになる。

明治17年(1884年)、東北地方を巡遊。明治17年(1885年)、上州へ遊歴。

英照皇太后に作品を献上し、皇室や宮家など御用達の作品を多く手がけた。明治32年(1889年)に華族女学校画学嘱託教授を務め、明治35年(1902年)には恒久王妃昌子内親王成久王妃房子内親王の御用掛を拝命する。明治37年(1904年)4月16日には女性初の帝室技芸員を拝命し[5]、翌年には正八位に叙せられた。明治40年(1907年)、文展審査員に選ばれる。

大正期には山水画を多く手がけ、大正天皇即位に際しては三河悠紀地方の「風俗歌屏風」制作を宮内庁から下命、大正4年(1915年)には竹内栖鳳の「主基殿屏風」と対になる御大典祝画屏風「悠紀殿屏風」を献上する。大正6年(1917年)2月、71歳で死去。

門弟に下平霞舟など。

代表作

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 款記・印章 備考
美人雅集図 絹本著色 十一屋コレクション 明治5年(1872年) 谷鉄臣旧蔵
岡本黄石喜寿肖像画 絹本著色 1幅 世田谷区立郷土資料館寄託 明治20年(1887年) 款記「丁亥晩秋 小蘋松邨親敬寫」[6]
西王母 絹本著色 十一屋コレクション 明治23年(1890年) 第三回内国勧業博覧会妙技2等賞
富貴百齢図 絹本著色 十一屋コレクション 明治25年(1892年)
春秋山水図屏風 絹本著色 六曲一双 静嘉堂文庫美術館 明治28年(1895年) 第四回内国勧業博覧会妙技2等賞
蘭亭曲水図屏風(表)・芦雁図屏風(裏) 絹本金地著色・紙本銀地墨画 六曲一双 182.5x391(各) シカゴ美術館 明治33年(1900年)
青緑萬松遷館図 絹本著色 1幅 194.5x143.4 講談社 野間記念館 明治35年(1902年) 款記「明治壬寅仲秋小蘋女史親寫」 第32回日本美術協会展[7]
箱根真景図屏風 絹本著色 六曲一双 山種美術館 明治40年(1907年)
春秋山水図屏風 絹本著色 六曲一双 129.1x304.4(各) 東京国立博物館 明治後期
溪山清趣図 絹本著色 1幅 161.5x71.5 東京国立博物館 大正元年(1912年)
阿波鳴門・小松島図 絹本著色 六曲一双 宮内庁 大正4年(1915年)

  1. ^ 幼少時から「玉山」と号し作品も残しているが、いずれも本格的な学習であったかは疑問視されている。
  2. ^ 小蘋は後に甲府商家野口家に嫁ぎ、野口家は多くの文人画家を庇護した甲府商家大木家とも親しく、小蘋自身も後に大木家に滞在し作品を残している。甲府城下横近習町在住の南画家竹邨三陽の門人には小蘋の兄弟子にあたる中丸精十郎三枝雲岱など江戸後期から明治初期の山梨県画壇の中心的人物がおり、彼らは師の三陽を通じて対山門人になったという。こうした人脈から甲州画家と対山には縁があり、大木コレクションには小蘋や精十郎、雲岱、対山、三陽らの作品が体系的に残されている。
  3. ^ 1893年、シカゴ万国博覧会褒状。1892年と95年、第三回・第四回内国勧業博覧会で共に妙技2等賞
  4. ^ 1882年、 内国絵画共進会「山水図」・「桂花図」褒状。1884年、同会にて「山水図」・「花卉図」が褒状。1896年、日本絵画協会共進会銅賞。1898年、日本美術協会特別賞状。1901年、同会「秋草図」金牌受賞。
  5. ^ 『官報』第6236号、明治37年4月18日。
  6. ^ 世田谷区立郷土資料館編集・発行 『平成二十四年度特別展 幕末維新 ─近代世田谷の夜明け─』 2012年11月3日、p.24。
  7. ^ 下関市立美術館編集・発行 『下関市立美術館企画展図録 日本絵画・20世紀の草創 日清・日露戦争の時代』 2004年11月11日、第76図。

参考文献

書籍
  • 成田山書道美術館監修 『近代文人のいとなみ』 淡交社、2006年 ISBN 978-4-4730-3374-1
  • 原田平作 『幕末明治 京洛の画人たち』 京都新聞社、1985年 ISBN 4-7638-0182-1全国書誌番号:85053747NCID BN00294982
展覧会図録
  • 『─明治の宮廷画家─ 近代南画と野口小蘋』 山梨県立美術館、2005年
    • 佐藤道信 「文明論としての南画と野口小蘋の歴史的位置」
    • 平林彰 「野口小蘋試論」
  • 『大木コレクションの名品』 山梨県立美術館、1992年
    • 守屋正彦 「大木喬命と幕末・明治の美術」
雑誌記事
  • 井土霊山「野口小蘋女子の蓋棺評」『書道及画道第二巻第四号』