「中林梧竹」の版間の差分
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明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の[[書風]]を確立し、その新書風で[[書道界|書壇]]への影響力が大きかった。[[六朝]]の[[書法]]を探究して、多くの[[拓本|碑拓]]を請来したため、書というよりもむしろ[[絵画]]の味わいがある。また、[[水墨画]]も数多く残している。 |
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同じく「[[明治の三筆]]」に数えられる[[日下部鳴鶴]]や[[巖谷一六]]と比べると、梧竹が手がけた石碑は少なく、現在全国に50基程を確認できる。石碑の文字にも独特の書風が現れているものが多いが、一部は正統の楷書で書かれている<ref>[[林淳]]『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「中林梧竹石碑一覧表」及び各石碑写真([[勝山城博物館]] 2017年)</ref>。 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
2020年7月3日 (金) 06:24時点における版
中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(1827年5月14日) - 大正2年(1913年)8月4日)は、日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。梧竹は号である。また剣閣主人ともいった。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。
業績
明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の書風を確立し、その新書風で書壇への影響力が大きかった。六朝の書法を探究して、多くの碑拓を請来したため、書というよりもむしろ絵画の味わいがある。また、水墨画も数多く残している。
同じく「明治の三筆」に数えられる日下部鳴鶴や巖谷一六と比べると、梧竹が手がけた石碑は少なく、現在全国に50基程を確認できる。石碑の文字にも独特の書風が現れているものが多いが、一部は正統の楷書で書かれている[1]。
略歴
- 肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。
- 18歳の時に藩命により江戸に留学し、山内香雪、市河米庵の門に入って書を学んだ。
- 明治10年(1877年、51歳)、清国の余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け、梧竹の六朝書の研究が始まった。
- 明治15年(1882年、56歳)、梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り、余元眉の師潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。
- 明治17年(1884年、58歳)、帰国し、明治24年(1891年、65歳)のとき、王羲之の十七帖の臨書を明治天皇に献上した。
- 80代半ばより、自らの書の歩みの集大成となる『梧竹堂書話』の執筆を始めている。
- 大正2年(1913年、87歳)、生涯を閉じた。
著書
- 『梧竹堂書話』
脚註
関連項目
参考文献
関連文献
- 『書と禅』大森曹玄 1975年 新装版第二版 春秋社 p.82