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[[富岡永洗]]の門人。洗圭、春汀、漁史と号し、Sとも記す。[[三河国]](現・[[愛知県]])[[渥美郡]][[福江町 (愛知県)|畠村]](現・[[田原市]][[福江町 (田原市)|福江町]])に[[廻船]]業と[[薬種]]問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉<ref name="atumi" />。明治11年([[1878年]])に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。 |
[[富岡永洗]]の門人。洗圭、春汀、漁史と号し、Sとも記す。[[三河国]](現・[[愛知県]])[[渥美郡]][[福江町 (愛知県)|畠村]](現・[[田原市]][[福江町 (田原市)|福江町]])に[[廻船]]業と[[薬種]]問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉<ref name="atumi" />。明治11年([[1878年]])に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。 |
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12歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞。14歳の時、漢書の筆写を好んで絵を模写する。<ref>田原市博物館「平成22年秋の企画展挿絵画家宮川春汀」2010年8月 p.113</ref>明治23年([[1890年]])得意としていた画業を志し上京、富岡永洗について絵を学んだ<ref name="furusato">田原市教育委員会編『ふるさとの偉人を尋ねる 田原を築いた人びと』田原市教育委員会 2015年1月 p.11</ref>。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・[[渡辺小華]]に憧れたからとする説がある。以来、写生を専らにして浮世人物を究め、特に好んで柔らかいタッチの[[子供絵]]を描いたほか、[[美人画]]を得意としている<ref name="furusato" />。最初は師から「蓬斎洗圭」の名を与えられるが、明治28年([[1895年]])に「宮川春汀」に改名した<ref name="furusato" />。作画期は明治20年([[1887年]])代から亡くなる年までで、明治20年代から明治30年代にかけては「風俗通」、「美人十二ヶ月」、「風俗錦絵雑帖」などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。こうした画業の傍ら、[[柳田國男]]、[[田山花袋]]、[[国木田独歩]]、[[徳田秋声]]、[[桐生悠々]]ら多くの若い文人たちと交流を重ねていった<ref>清田治「渥美半島の生んだ挿画家 宮川春汀の生涯に関わる人々(1)」研究紀要第8号 渥美郷土資料館 2004年8月 p.68</ref>。また作家・[[ |
12歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞。14歳の時、漢書の筆写を好んで絵を模写する。<ref>田原市博物館「平成22年秋の企画展挿絵画家宮川春汀」2010年8月 p.113</ref>明治23年([[1890年]])得意としていた画業を志し上京、富岡永洗について絵を学んだ<ref name="furusato">田原市教育委員会編『ふるさとの偉人を尋ねる 田原を築いた人びと』田原市教育委員会 2015年1月 p.11</ref>。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・[[渡辺小華]]に憧れたからとする説がある。以来、写生を専らにして浮世人物を究め、特に好んで柔らかいタッチの[[子供絵]]を描いたほか、[[美人画]]を得意としている<ref name="furusato" />。最初は師から「蓬斎洗圭」の名を与えられるが、明治28年([[1895年]])に「宮川春汀」に改名した<ref name="furusato" />。作画期は明治20年([[1887年]])代から亡くなる年までで、明治20年代から明治30年代にかけては「風俗通」、「美人十二ヶ月」、「風俗錦絵雑帖」などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。こうした画業の傍ら、[[柳田國男]]、[[田山花袋]]、[[国木田独歩]]、[[徳田秋声]]、[[桐生悠々]]ら多くの若い文人たちと交流を重ねていった<ref>清田治「渥美半島の生んだ挿画家 宮川春汀の生涯に関わる人々(1)」研究紀要第8号 渥美郷土資料館 2004年8月 p.68</ref>。また作家・[[巖谷小波]]と知り合い、明治31年5月小波が主催する「木曜会」に入会し、彼らと作品を批評したり句会を開いた。 |
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明治38年([[1905年]])最愛の長女が電車事故で亡くなった<ref name="atumi" />事が、生来生真面目で神経質、そして多少の癇癪持ちだった春汀の心に、生涯重荷となってのしかかった。また大正2年([[1913年]])[[日本美術院|院展]]出品を目指して制作に意欲を燃やすも、振るわず次第に神経が蝕まれていく。翌年正月に発病、入院するも快方に向かわず生涯を閉じた。享年は数えで42。墓は長女と同じ[[染井霊園]]。後に分骨され、郷里福江の[[菩提寺]]・潮音寺の宮川家墓地に納められた。 |
明治38年([[1905年]])最愛の長女が電車事故で亡くなった<ref name="atumi" />事が、生来生真面目で神経質、そして多少の癇癪持ちだった春汀の心に、生涯重荷となってのしかかった。また大正2年([[1913年]])[[日本美術院|院展]]出品を目指して制作に意欲を燃やすも、振るわず次第に神経が蝕まれていく。翌年正月に発病、入院するも快方に向かわず生涯を閉じた。享年は数えで42。墓は長女と同じ[[染井霊園]]。後に分骨され、郷里福江の[[菩提寺]]・潮音寺の宮川家墓地に納められた。 |
2020年7月3日 (金) 06:18時点における版
宮川 春汀 | |
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生誕 |
渡辺 守吉 1873年11月11日 三河国渥美郡畠村(愛知県田原市福江町)[1] |
死没 |
1914年7月26日(40歳没) 東京府豊多摩郡代々幡村代々木[2] |
墓地 | 染井墓地 |
配偶者 | 於敬 |
宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11月11日 - 大正3年〈1914年〉7月26日)[2]とは、明治時代の浮世絵師。
来歴
富岡永洗の門人。洗圭、春汀、漁史と号し、Sとも記す。三河国(現・愛知県)渥美郡畠村(現・田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉[2]。明治11年(1878年)に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。
12歳の時、敷知郡誠明教育会主催の展覧会で作文・図画の一等賞を受賞。14歳の時、漢書の筆写を好んで絵を模写する。[3]明治23年(1890年)得意としていた画業を志し上京、富岡永洗について絵を学んだ[4]。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。以来、写生を専らにして浮世人物を究め、特に好んで柔らかいタッチの子供絵を描いたほか、美人画を得意としている[4]。最初は師から「蓬斎洗圭」の名を与えられるが、明治28年(1895年)に「宮川春汀」に改名した[4]。作画期は明治20年(1887年)代から亡くなる年までで、明治20年代から明治30年代にかけては「風俗通」、「美人十二ヶ月」、「風俗錦絵雑帖」などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。こうした画業の傍ら、柳田國男、田山花袋、国木田独歩、徳田秋声、桐生悠々ら多くの若い文人たちと交流を重ねていった[5]。また作家・巖谷小波と知り合い、明治31年5月小波が主催する「木曜会」に入会し、彼らと作品を批評したり句会を開いた。
明治38年(1905年)最愛の長女が電車事故で亡くなった[2]事が、生来生真面目で神経質、そして多少の癇癪持ちだった春汀の心に、生涯重荷となってのしかかった。また大正2年(1913年)院展出品を目指して制作に意欲を燃やすも、振るわず次第に神経が蝕まれていく。翌年正月に発病、入院するも快方に向かわず生涯を閉じた。享年は数えで42。墓は長女と同じ染井霊園。後に分骨され、郷里福江の菩提寺・潮音寺の宮川家墓地に納められた。
作品
- 「小供風俗」 大判24枚揃×2組 明治29年‐明治30年 「瓢箪ぼっくり」、「動物園」など。
- 「風俗通」 錦絵 大判 揃物 明治30年‐明治31年
- 「こども遊」 錦絵 江戸東京博物館所蔵
- 「こども遊 やり羽子」 錦絵 江戸東京博物館所蔵
- 「有喜世之華 囲碁」 錦絵 大判 36枚揃の内 明治30年
- 「有喜世之華 縫い物」 錦絵 大判 36枚揃の内明治31年
- 「有喜世之華 のぞきからくり」 錦絵 36枚揃の内大判 明治31年
- 「有喜世之華 髪結子」 錦絵 大判 36枚揃の内山口県立萩博物館・浦上記念館所蔵
- 「有喜世之華 短冊子」 錦絵 大判 36枚揃の内山口県立萩博物館・浦上記念館所蔵
- 「有喜世之華 雛祭」 錦絵 大判 36枚揃の内
- 「美人十二ヶ月」 錦絵 大判3枚続 12枚揃 明治31年
脚注
参考文献
- 日本浮世絵協会編『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年
- 渥美町郷土資料館編集発行 『特別展 宮川春汀』図録、1987年
- 田原市博物館編集・発行 『田原市博物館 平成22年 秋の企画展 挿絵画家 宮川春汀展』図録、2010年