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== 著書 ==
== 著書 ==
*『短歌鑑賞の心理 助詞を中心として』人文書院 1936年
*『短歌鑑賞の心理 助詞を中心として』人文書院 1936年
*『[[西園寺しょう子|永福門院]]』生活社 1943年
*『[[西園寺子|永福門院]]』生活社 1943年
=== 共著 ===
=== 共著 ===
*『日本文學史入門』[[久松潜一]]監修 [[大久保正]],[[溝江德明]],野田壽雄, 新間進一共著 愛日書院 1949年
*『日本文學史入門』[[久松潜一]]監修 [[大久保正]],[[溝江德明]],野田壽雄, 新間進一共著 愛日書院 1949年

2020年7月3日 (金) 06:18時点における版

佐佐木治綱
誕生 (1909-02-20) 1909年2月20日
東京府
死没 (1959-10-08) 1959年10月8日(50歳没)
職業 歌人国文学者
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京帝国大学文学部国文科卒業
配偶者 佐佐木由幾
子供 佐佐木幸綱(長男)
親族 佐佐木信綱(父)
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佐佐木 治綱(ささき はるつな、1909年2月20日 - 1959年10月8日)は、昭和期の歌人国文学者

佐佐木信綱の三男として東京に生まれる。1935年東京帝国大学文学部国文科卒業。父と斎藤瀏に師事し、1940年「鶯」を創刊。1944年心の花」と合併し、1952年から編集責任者。白百合短期大学教授。中世和歌、特に玉葉和歌集風雅和歌集を専門とした。1959年、転落事故により急逝[1][2]。父よりも早い死であった。

妻の佐佐木由幾(旧姓・鈴木、理化学研究所研究員鈴木庸生の次女)も歌人。長男は歌人の佐佐木幸綱

著書

  • 『短歌鑑賞の心理 助詞を中心として』人文書院 1936年
  • 永福門院』生活社 1943年

共著

訳・校訂

  • 平田篤胤歌文集』校註 冨山房 1941年
  • 『平安朝日記集』校訂 いてふ本刊行会 1953年
  • 『古典日本文学全集 第34 (本居宣長集)』初山踏 玉勝間 筑摩書房 1960年

脚注

  1. ^ 20世紀歌人群像
  2. ^ 当時の学会消息では死因は尿毒症となっている。学会消息」『中世文学』第5巻、中世文学会、1960年、42-45頁、doi:10.24604/chusei.5_42 

参考