「尊常法親王」の版間の差分
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'''尊常法親王'''(そんじょうほうしんのう、[[文政]]元年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1818年]][[7月16日]])<ref>ただし、文書上の表向きの公式は文化13年5月23日生まれ(是澤「尊常法親王『日本人名大事典』)。</ref> - [[天保]]7年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]([[1836年]][[6月22日]])<ref>ただし、文書上の表向きの公式は天保7年6月26日死去(「尊常親王」『国書人名辞典 3』)。</ref>)は、[[江戸時代]]後期の[[法親王]]。[[伏見宮貞敬親王]]の第八王子で、母は[[一条輝子 (一条輝良の娘)|一条輝子]]([[一条輝良]]の娘)。幼名は欽宮(のぶのみや)、後に能布宮(読み方は同じ)。諱は守貴(もりたか)。 |
'''尊常法親王'''(そんじょうほうしんのう、[[文政]]元年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1818年]][[7月16日]])<ref>ただし、文書上の表向きの公式は文化13年5月23日生まれ(是澤「尊常法親王『日本人名大事典』)。</ref> - [[天保]]7年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]([[1836年]][[6月22日]])<ref>ただし、文書上の表向きの公式は天保7年6月26日死去(「尊常親王」『国書人名辞典 3』)。</ref>)は、[[江戸時代]]後期の[[法親王]]。[[伏見宮貞敬親王]]の第八王子で、母は[[一条輝子 (一条輝良の娘)|一条輝子]]([[一条輝良]]の娘)。幼名は欽宮(のぶのみや)、後に能布宮(読み方は同じ)。諱は守貴(もりたか)。 |
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誕生直後の文政元年8月に[[光格天皇]]・[[勧修寺婧子|勸修寺婧子]]の養子となる。文政5年([[1822年]])8月、[[一乗院]]門跡である[[尊誠法親王]]<ref>貞敬親王の第四王子で尊常の実兄、同年6月に17歳で急逝(是澤「尊誠法親王『日本人名大事典』)。</ref>の後継者に選ばれて、天保3年([[1832年]])5月2日に[[親王宣下]]、同年12月に出家したが、4年後に19歳で急死した。諡号は成智心院。 |
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2020年7月3日 (金) 06:18時点における版
尊常法親王(そんじょうほうしんのう、文政元年6月14日(1818年7月16日)[1] - 天保7年5月9日(1836年6月22日)[2])は、江戸時代後期の法親王。伏見宮貞敬親王の第八王子で、母は一条輝子(一条輝良の娘)。幼名は欽宮(のぶのみや)、後に能布宮(読み方は同じ)。諱は守貴(もりたか)。
誕生直後の文政元年8月に光格天皇・勸修寺婧子の養子となる。文政5年(1822年)8月、一乗院門跡である尊誠法親王[3]の後継者に選ばれて、天保3年(1832年)5月2日に親王宣下、同年12月に出家したが、4年後に19歳で急死した。諡号は成智心院。
脚注
- ^ ただし、文書上の表向きの公式は文化13年5月23日生まれ(是澤「尊常法親王『日本人名大事典』)。
- ^ ただし、文書上の表向きの公式は天保7年6月26日死去(「尊常親王」『国書人名辞典 3』)。
- ^ 貞敬親王の第四王子で尊常の実兄、同年6月に17歳で急逝(是澤「尊誠法親王『日本人名大事典』)。