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「京極派」の版間の差分

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「和歌の家」としての京極派は、[[藤原北家]][[御子左家|御子左流]]に属し、御子左家の嫡男[[二条為氏]]の庶弟[[京極為教]]とその子[[京極為兼|為兼]]に始まるが、実質的には為兼によって和歌の流派としての京極派は生まれた。御子左[[嫡流]]で、[[大覚寺統]](のちの[[南朝 (日本)|南朝]])と結びついた[[二条派]]に対し、為兼は[[伏見天皇|伏見院]]の歌道師範として迎えられたのを契機に[[持明院統]](のちの[[北朝 (日本)|北朝]])宮廷において歌壇を築き、斬新な歌風を流行させた。実感を尊び繊細な感覚的表現による歌は[[鎌倉時代]]末期の沈滞していた当時の歌壇に新鮮味を与えたが、その奇抜で型破りな表現によって二条派からつよい非難を浴びることになった。為兼の歌論書として『[[為兼卿和歌抄]]』がある。
「和歌の家」としての京極派は、[[藤原北家]][[御子左家|御子左流]]に属し、御子左家の嫡男[[二条為氏]]の庶弟[[京極為教]]とその子[[京極為兼|為兼]]に始まるが、実質的には為兼によって和歌の流派としての京極派は生まれた。御子左[[嫡流]]で、[[大覚寺統]](のちの[[南朝 (日本)|南朝]])と結びついた[[二条派]]に対し、為兼は[[伏見天皇|伏見院]]の歌道師範として迎えられたのを契機に[[持明院統]](のちの[[北朝 (日本)|北朝]])宮廷において歌壇を築き、斬新な歌風を流行させた。実感を尊び繊細な感覚的表現による歌は[[鎌倉時代]]末期の沈滞していた当時の歌壇に新鮮味を与えたが、その奇抜で型破りな表現によって二条派からつよい非難を浴びることになった。為兼の歌論書として『[[為兼卿和歌抄]]』がある。


京極派歌壇には、(1)歌の家としての京極家(および当時はまだ一家を成すにいたっていなかった[[冷泉家]])、(2)京極派歌風を信奉する歌人たちの集まり、(3)[[伏見天皇|伏見院]]宮廷における文学サロンの三つの面があり、それぞれが互いに重なりあいつつ全体として「京極派」と呼ぶべきものをかたちづくっている。通常鎌倉期のそれを前期、南北朝期以降のそれを後期と呼んで区分しているが、前期京極派においては[[京極為兼]]、[[伏見天皇|伏見院]]、[[久明親王]]、[[西園寺しょう子|永福門院]]、[[京極為子]](従二位為子)、[[冷泉為相]](娘が持明院統の[[久明親王]]に嫁す)、[[北畠親子]]らが主要な歌人として活躍し、十三番目の勅撰集『[[玉葉和歌集]]』(伏見院下命、為兼撰)が編まれた。後期京極派においては、永福門院、[[花園天皇|花園院]]、[[光厳天皇|光厳院]]らが主要な歌人として活躍し、十七番目の勅撰集『[[風雅和歌集]]』([[花園天皇|花園院]]下命、[[光厳天皇|光厳院]]親撰)が編まれたが、[[観応の擾乱]]によって光厳院ら[[持明院統]]の要人が[[南朝 (日本)|南朝]]側に監禁された結果、持明院統宮廷が大きな打撃を受け、そして光厳院が監禁されている間に持明院統を継いだ[[後光厳天皇|後光厳院]]が二条派を重んじたため、思わしい後嗣を得ないままに断絶した。
京極派歌壇には、(1)歌の家としての京極家(および当時はまだ一家を成すにいたっていなかった[[冷泉家]])、(2)京極派歌風を信奉する歌人たちの集まり、(3)[[伏見天皇|伏見院]]宮廷における文学サロンの三つの面があり、それぞれが互いに重なりあいつつ全体として「京極派」と呼ぶべきものをかたちづくっている。通常鎌倉期のそれを前期、南北朝期以降のそれを後期と呼んで区分しているが、前期京極派においては[[京極為兼]]、[[伏見天皇|伏見院]]、[[久明親王]]、[[西園寺子|永福門院]]、[[京極為子]](従二位為子)、[[冷泉為相]](娘が持明院統の[[久明親王]]に嫁す)、[[北畠親子]]らが主要な歌人として活躍し、十三番目の勅撰集『[[玉葉和歌集]]』(伏見院下命、為兼撰)が編まれた。後期京極派においては、永福門院、[[花園天皇|花園院]]、[[光厳天皇|光厳院]]らが主要な歌人として活躍し、十七番目の勅撰集『[[風雅和歌集]]』([[花園天皇|花園院]]下命、[[光厳天皇|光厳院]]親撰)が編まれたが、[[観応の擾乱]]によって光厳院ら[[持明院統]]の要人が[[南朝 (日本)|南朝]]側に監禁された結果、持明院統宮廷が大きな打撃を受け、そして光厳院が監禁されている間に持明院統を継いだ[[後光厳天皇|後光厳院]]が二条派を重んじたため、思わしい後嗣を得ないままに断絶した。


[[中世]]・[[近世]]においては高く評価されることがなく、長らく埋もれたままになっていた京極派ではあるが、近代に入ってから再評価が行われ、特に[[折口信夫]]や[[土岐善麿]]がその歌風をつよく称揚した。戦後に入って[[岩佐美代子]]らによる研究が進み、その全貌が徐々にあきらかになりつつある。
[[中世]]・[[近世]]においては高く評価されることがなく、長らく埋もれたままになっていた京極派ではあるが、近代に入ってから再評価が行われ、特に[[折口信夫]]や[[土岐善麿]]がその歌風をつよく称揚した。戦後に入って[[岩佐美代子]]らによる研究が進み、その全貌が徐々にあきらかになりつつある。
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* 歌論書-為兼卿和歌抄・風雅和歌集序
* 歌論書-為兼卿和歌抄・風雅和歌集序
* 私家集-[[伏見天皇|伏見院]]御集・[[花園天皇|花園院]]御集
* 私家集-[[伏見天皇|伏見院]]御集・[[花園天皇|花園院]]御集
* 歌合等-[[西園寺しょう子|永福門院]]御自歌合
* 歌合等-[[西園寺子|永福門院]]御自歌合
* 研究所-『京極派和歌の研究』『京極派歌人の研究』(ともに[[岩佐美代子]])
* 研究所-『京極派和歌の研究』『京極派歌人の研究』(ともに[[岩佐美代子]])



2020年7月3日 (金) 06:17時点における版

京極派(きょうごくは)は、鎌倉中期から室町初期にかけての和歌の流派の一つ。

「和歌の家」としての京極派は、藤原北家御子左流に属し、御子左家の嫡男二条為氏の庶弟京極為教とその子為兼に始まるが、実質的には為兼によって和歌の流派としての京極派は生まれた。御子左嫡流で、大覚寺統(のちの南朝)と結びついた二条派に対し、為兼は伏見院の歌道師範として迎えられたのを契機に持明院統(のちの北朝)宮廷において歌壇を築き、斬新な歌風を流行させた。実感を尊び繊細な感覚的表現による歌は鎌倉時代末期の沈滞していた当時の歌壇に新鮮味を与えたが、その奇抜で型破りな表現によって二条派からつよい非難を浴びることになった。為兼の歌論書として『為兼卿和歌抄』がある。

京極派歌壇には、(1)歌の家としての京極家(および当時はまだ一家を成すにいたっていなかった冷泉家)、(2)京極派歌風を信奉する歌人たちの集まり、(3)伏見院宮廷における文学サロンの三つの面があり、それぞれが互いに重なりあいつつ全体として「京極派」と呼ぶべきものをかたちづくっている。通常鎌倉期のそれを前期、南北朝期以降のそれを後期と呼んで区分しているが、前期京極派においては京極為兼伏見院久明親王永福門院京極為子(従二位為子)、冷泉為相(娘が持明院統の久明親王に嫁す)、北畠親子らが主要な歌人として活躍し、十三番目の勅撰集『玉葉和歌集』(伏見院下命、為兼撰)が編まれた。後期京極派においては、永福門院、花園院光厳院らが主要な歌人として活躍し、十七番目の勅撰集『風雅和歌集』(花園院下命、光厳院親撰)が編まれたが、観応の擾乱によって光厳院ら持明院統の要人が南朝側に監禁された結果、持明院統宮廷が大きな打撃を受け、そして光厳院が監禁されている間に持明院統を継いだ後光厳院が二条派を重んじたため、思わしい後嗣を得ないままに断絶した。

中世近世においては高く評価されることがなく、長らく埋もれたままになっていた京極派ではあるが、近代に入ってから再評価が行われ、特に折口信夫土岐善麿がその歌風をつよく称揚した。戦後に入って岩佐美代子らによる研究が進み、その全貌が徐々にあきらかになりつつある。

関連文献

関連項目