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== 人物 ==
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平河学校(現・[[千代田区立麹町小学校]])卒業<ref name="sazanami">[[谷小波]]『〈おとぎばなし〉をつくった巌谷小波 我が五十年』ゆまに書房 1998 p.12</ref>。平河学校では、学年は違うものの[[児童文学者]]の[[谷小波]]や[[洋画家]]の[[黒田清輝]]、[[能書家]]の[[宮島詠士]]らと親しくなり<ref name="sazanami"/>、その交流は終生続いた<ref name="sazanami"/>。[[1886年]](明治19年)東京専門学校(現[[早稲田大学]])卒業、[[1892年]](明治25年)[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法科大学]]卒業、同大学院進学。[[1901年]](明治34年)[[法学博士]]。


[[1892年]](明治25年)東京専門学校(現早稲田大学)講師就任。[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]留学等を経て、[[1900年]](明治33年)[[京都帝国大学]][[京都大学大学院法学研究科・法学部|法科大学]]商法第一講座教授、[[京都法政学校]](現在の[[立命館大学]])講師、[[1907年]](明治40年)京都帝国大学を退官し[[弁護士]]登録。1930年[[縊死]]。
[[1892年]](明治25年)東京専門学校(現早稲田大学)講師就任。[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]留学等を経て、[[1900年]](明治33年)[[京都帝国大学]][[京都大学大学院法学研究科・法学部|法科大学]]商法第一講座教授、[[京都法政学校]](現在の[[立命館大学]])講師、[[1907年]](明治40年)京都帝国大学を退官し[[弁護士]]登録。1930年[[縊死]]。

2020年7月3日 (金) 06:13時点における版

高根 義人(たかね よしひと、1867年8月10日慶応3年7月11日) - 1930年昭和5年)7月14日)は、日本の法学者。専門は商法

人物

平河学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業[1]。平河学校では、学年は違うものの児童文学者巖谷小波洋画家黒田清輝能書家宮島詠士らと親しくなり[1]、その交流は終生続いた[1]1886年(明治19年)東京専門学校(現早稲田大学)卒業、1892年(明治25年)東京帝国大学法科大学卒業、同大学院進学。1901年(明治34年)法学博士

1892年(明治25年)東京専門学校(現早稲田大学)講師就任。ベルリン大学留学等を経て、1900年(明治33年)京都帝国大学法科大学商法第一講座教授、京都法政学校(現在の立命館大学)講師、1907年(明治40年)京都帝国大学を退官し弁護士登録。1930年縊死

高根義三郎(裁判官)は三男。

脚注

  1. ^ a b c 巖谷小波『〈おとぎばなし〉をつくった巌谷小波 我が五十年』ゆまに書房 1998 p.12