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本作が子供向けの西洋の漫画の影響を受けていることは、関係者の数々の証言から明らかになっている。<ref>『正チャンの冒険』 p.133</ref>アサヒグラフの編集長であった[[鈴木文史朗]]は、イギリスの新聞[[デイリー・ミラー]]で連載されていた『{{仮リンク|ピップ・スクウィーク・アンド・ウィルフレッド|en|Pip, Squeak and Wilfred}}』の面白さに惹かれ、登場するペンギンをリスに変更して子供を加えた物語漫画の連載を構想した。そして、アサヒグラフの子供向けページ全体の編集を担当することになった織田が原作を担当し、朝日新聞の編集部員に招聘された樺島が作画を担当した。 |
本作が子供向けの西洋の漫画の影響を受けていることは、関係者の数々の証言から明らかになっている。<ref>『正チャンの冒険』 p.133</ref>アサヒグラフの編集長であった[[鈴木文史朗]]は、イギリスの新聞[[デイリー・ミラー]]で連載されていた『{{仮リンク|ピップ・スクウィーク・アンド・ウィルフレッド|en|Pip, Squeak and Wilfred}}』の面白さに惹かれ、登場するペンギンをリスに変更して子供を加えた物語漫画の連載を構想した。そして、アサヒグラフの子供向けページ全体の編集を担当することになった織田が原作を担当し、朝日新聞の編集部員に招聘された樺島が作画を担当した。 |
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アサヒグラフの編集に携わる前は日本銀行員としてヨーロッパに渡っていた織田だが、現地で様々な児童文化に触れたことでそのような仕事に携わりたいと思うようになった。そして帰国してから[[ |
アサヒグラフの編集に携わる前は日本銀行員としてヨーロッパに渡っていた織田だが、現地で様々な児童文化に触れたことでそのような仕事に携わりたいと思うようになった。そして帰国してから[[巖谷小波]]に相談し、巌谷の同意を得て協力を得るために朝日新聞社に向かい、編集の仕事を行うようになった。 |
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一方、当時の樺島は、雑誌や教科書などの表紙や口絵や挿絵を中心に活動していた。世間にはあまり知られていなかったものの、その実力を高く評価する者もいたことで朝日新聞社に招聘された。元々の絵柄は銅版画のような硬いものであったが、この作品では柔らかい絵柄を見せることとなる。<ref>『正チャンの冒険』 p.140-141</ref> |
一方、当時の樺島は、雑誌や教科書などの表紙や口絵や挿絵を中心に活動していた。世間にはあまり知られていなかったものの、その実力を高く評価する者もいたことで朝日新聞社に招聘された。元々の絵柄は銅版画のような硬いものであったが、この作品では柔らかい絵柄を見せることとなる。<ref>『正チャンの冒険』 p.140-141</ref> |
2020年7月3日 (金) 06:12時点における版
『正チヤンの冒険』(しょうちゃんのぼうけん)は、画・東風人(樺島勝一)と作・織田小星(織田信恒)の作った新聞4コマ漫画。大正時代にアサヒグラフや朝日新聞などで、タイトルを変更しながら連載された。主人公の少年、「正チャン」と相棒の「リス」による様々な冒険の旅を描き、西洋的なセンスにあふれた絵柄と童話を思わせる幻想的な物語で、当時の読者に大好評を博した[1]。
出版
最初は『正チヤンのばうけん』のタイトルで、アサヒグラフの1923年(大正12年)1月の創刊号から9月の最終号まで連載された。アサヒグラフが廃刊となってからは朝日新聞の朝刊で連載されることとなり、同年の10月20日付から『正チヤンノバウケン』『お伽 正チヤンノ冒険』『正チヤンの冒険』などと、数回タイトルを変更しながら連載された。1924年(大正13年)8月20日付で連載が休止するも10月5日付から再び連載が始まり、翌年の10月31日付まで連載された。さらに1926年(大正15年)の2月12日付から5月18日付まで、『正チヤンのその後』が連載された。一方、再刊されたアサヒグラフでも、『水曜日の正ちやん』のタイトルで1924年(大正13年)3月12日号から8月27日号まで連載された。
1924年(大正13年)から1925年(大正14年)にかけて、朝日新聞社から全7巻の単行本(横長本、1巻64頁、4色刷)が刊行された。初版刊行日は以下の通り[2]である。
- 壱の巻 - 1924年7月6日
- 貮の巻 - 1924年9月10日
- 参の巻 - 1924年10月25日
- 四の巻 - 1925年1月10日
- 五の巻 - 1925年3月20日
- 六の巻 - 1925年6月15日
- 七の巻 - 1925年10月15日
またこれらの単行本とは異なる関連作品も存在する。1926年(大正15年)には朝日新聞社から『正チャンの其後』というタイトルの絵本(大型縦本、60頁)が書き下ろしで刊行された[3]。これには正チャンやリスに加えて、「ドンキチ」というドングリの小人が登場する。さらに同年には金尾文淵堂から『正チャンとリス』という本が刊行されたが、これは樺島が表紙と扉絵を手掛け、収録された漫画は清水君吉が手掛けている。昭和以降も関連作品は登場し、1950年(昭和25年)と1951年(昭和26年)には大日本雄辯會講談社から『絵ものがたり 正ちゃんのぼうけん』として刊行された。
作風・形式
1頁完全定形4コマであったが、連載が続くにつれて、4コママンガだけではなく長編ストーリー漫画も描かれた。ページ数は不定だが、多くの回は8頁から13頁ほどである。それぞれのコマごとに、絵に加えてコマの外に縦書きで書かれたト書きが付き、コマの内部にセリフが書かれた尾付角型の吹き出しが用いられた。このスタイルは「それ以前にあった絵物語と近代マンガの中間的なスタイル」[4]だと中条省平は指摘している。日本の漫画で初めて吹き出しを使用した作品としても知られる[1]。
漫画評論家の竹内オサムは「簡潔な絵柄と大正の童心芸術運動の雰囲気を接ぎ木」[5]した作風だと指摘する。主人公自身も読者対象である子供に広くアピールすることとなり、動物をお供にする設定も当時の時代背景を考えると新鮮であったと指摘する。
背景
本作が子供向けの西洋の漫画の影響を受けていることは、関係者の数々の証言から明らかになっている。[6]アサヒグラフの編集長であった鈴木文史朗は、イギリスの新聞デイリー・ミラーで連載されていた『ピップ・スクウィーク・アンド・ウィルフレッド』の面白さに惹かれ、登場するペンギンをリスに変更して子供を加えた物語漫画の連載を構想した。そして、アサヒグラフの子供向けページ全体の編集を担当することになった織田が原作を担当し、朝日新聞の編集部員に招聘された樺島が作画を担当した。
アサヒグラフの編集に携わる前は日本銀行員としてヨーロッパに渡っていた織田だが、現地で様々な児童文化に触れたことでそのような仕事に携わりたいと思うようになった。そして帰国してから巖谷小波に相談し、巌谷の同意を得て協力を得るために朝日新聞社に向かい、編集の仕事を行うようになった。
一方、当時の樺島は、雑誌や教科書などの表紙や口絵や挿絵を中心に活動していた。世間にはあまり知られていなかったものの、その実力を高く評価する者もいたことで朝日新聞社に招聘された。元々の絵柄は銅版画のような硬いものであったが、この作品では柔らかい絵柄を見せることとなる。[7]
社会的な反響
連載途中から主人公がかぶることが増えた、大きなボンボンが頭上についた毛糸の帽子は「正チャン帽」と呼ばれ、子供たちの間で流行した[1]。
1925年1月には大阪市近辺のすべての「正チャン」と呼ばれる少年たちが、朝日新聞の大阪本社に無料で招待されて、大きな集会が開催された。そこでは食べ物が振舞われ、催し物が開かれ、帽子屋の連合から正ちゃん帽が贈られた。そんな子供たちの様子は写真に収められ、朝日新聞とアサヒグラフで大きく紹介されることとなった。
この作品を原作とした舞台や映画も製作された。1924年10月1日から同月21日までの20日間、宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)月組公演として宝塚大劇場で、演目「正ちやんの冒險」が、正ちゃん役:天津乙女、リス役:住江岸子、悪魔役:千早多津子、天女役:夢路すみ子で上演された他に、1926年には東亜キネマによって白黒の無声映画が公開された。
脚注
- ^ a b c 日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P89-90
- ^ 広島市まんが図書館
- ^ Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 title は必須です。“[1]”. 言語(Language): トップへ このデータベースについて. 2020年1月29日閲覧。
- ^ 『正チャンの冒険』 p.132
- ^ 『正チャンの冒険』 p.136
- ^ 『正チャンの冒険』 p.133
- ^ 『正チャンの冒険』 p.140-141
参考文献
- 樺島勝一・織田信恒著 『正チャンの冒険』 小学館クリエイティブ、2003年 ISBN 477803001X
- 瀬田貞二著 『絵本論』 福音館書店、1985年 ISBN 4834004112
- 鶴見俊輔著 『戦後日本の大衆文化史』 岩波書店(岩波現代文庫)、2001年 ISBN 4006000510
- 松本零士・日高敏編著 『漫画大博物館』 小学館クリエイティブ、2004年 ISBN 4778030079
- 吉岡重三郎編集 『寶塚少女歌劇廿年史』 寶塚少女歌劇團、1933年