「能力の社会的構成説」の版間の差分
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2020年6月29日 (月) 00:01時点における版
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能力の社会的構成説とは、能力というのは社会的にあることにされているに過ぎず、仮想的なものであるという教育学における考え方である。[1]
この考えの下では、能力があるから試験や選抜で選ばれるのではなく、試験や選抜で選ばれるものが能力があるとみなされるのだとされる。
脚注
- ^ 教育は何を評価してきたのか. 岩波新書. (2020年3月19日)
関連項目
外部リンク
- 本田由紀「社会学の観点から (特集 この概念の意味するところ) -- (能力とは)」(PDF)『日本労働研究雑誌』第59巻第4号、労働政策研究・研修機構、2017年4月、46-48頁、ISSN 0916-3808、NAID 40021169283。
- 井田頼子「帰国生は「能力シグナル」をどのように認識するのか : 塾での大学入試対策に着目して」『東京大学大学院教育学研究科紀要』第53巻、東京大学大学院教育学研究科、2014年3月、19-30頁、doi:10.15083/00031036。
- 中村高康「メリトクラシーの再帰性について--後期近代における「教育と選抜」に関する一考察」『大阪大学大学院人間科学研究科紀要』第35巻、大阪大学大学院人間科学研究科、2009年、207-226頁、doi:10.18910/4053、ISSN 13458574、NAID 120004838255。
- 末冨芳「中村高康 著『暴走する能力主義 教育と現代社会の病理』」『教育学研究』第86巻第1号、日本教育学会、2019年、115-116頁、doi:10.11555/kyoiku.86.1_115、ISSN 0387-3161、NAID 130007728378。
- 苅谷剛彦「日本のメリトクラシーはどこまで日本的か ? : 竹内洋著『日本のメリトクラシー - 構造と心性 - 』」『社会学評論』第47巻第4号、日本社会学会、1997年、491-497頁、doi:10.4057/jsr.47.491、ISSN 0021-5414、NAID 110000226209。
- 河合淳子「<論文>能力観の形成過程について : 調査のための分岐視点」『教育・社会・文化 : 研究紀要』第1巻、京都大学教育学部 教育社会学・生涯学習計画・社会教育・図書館学研究室、 エラー: 日付が正しく記入されていません。。