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「ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)」の版間の差分

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2020年6月27日 (土) 02:49時点における版

ヴィルヘルム
Wilhelm
ホーエンツォレルン家
1914年
続柄 ヴィルヘルム2世第一皇子

全名 Friedrich Wilhelm Victor August Ernst
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アウグスト・エルンスト
称号 ドイツ皇太子
プロイセン王太子
出生 1882年5月6日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国 ポツダム
死去 (1951-07-20) 1951年7月20日(69歳没)
西ドイツの旗 西ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州ヘッヒンゲン英語版
埋葬 西ドイツの旗 西ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州ホーエンツォレルン城
配偶者 ツェツィーリエ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン
子女 ヴィルヘルム
ルイ・フェルディナント
フーベルトゥス
フリードリヒ
アレクサンドリーネ
ツェツィーリエ
父親 ヴィルヘルム2世
母親 アウグステ・ヴィクトリア
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ヴィルヘルム・フォン・プロイセンドイツ語: Wilhelm von Preußen, 1882年5月6日 - 1951年7月20日)は、プロイセン王国の王族・軍人。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アウグスト・エルンストFriedrich Wilhelm Victor August Ernst)。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の長男で、最後のドイツ皇太子

来歴

出生

曾祖母ヴィクトリア女王に抱かれるヴィルヘルム(1883年)

ヴィルヘルムは1882年5月6日、ヴィルヘルム2世(当時皇長孫)とその妃であったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フリードリヒ8世の娘アウグステ・ヴィクトリアの間に第1子としてポツダム大理石宮殿ドイツ語版で生まれた。誕生時、ヴィルヘルムは祖父(フリードリヒ3世)、父(ヴィルヘルム2世)に次ぐ皇位継承第3位の立場を得た。ヴィルヘルム2世は母ヴィクトリアと険悪な関係だったため、ヴィルヘルムの養育については叔母ヘレナに意見を求めた。こうした息子の態度を見たヴィクトリアは、彼の祖母であるヴィクトリア女王の心証を傷付ける行為だと非難した[1]

1888年、曽祖父ヴィルヘルム1世及び皇位を継いだ祖父フリードリヒ3世が相次いで死去し、父ヴィルヘルム2世が即位したことに伴い皇太子となった。学生時代をボン大学で過ごし、在学中は父と同様に学生組合コーア・ボルシア・ボンドイツ語版のメンバーだった。1905年6月6日にメクレンブルク=シュヴェリーン大公女ツェツィーリエと結婚した。ヴィルヘルムは普及し始めたサッカーに興味を持ち、1908年ドイツサッカー連盟にカップを寄付している[2]1914年、ヴィルヘルム2世は息子家族のためにツェツィーリエンホーフ宮殿の建設を命じている。宮殿は1917年に完成し、ヴィルヘルムの暮らしの拠点となった。

第一次世界大戦

ベルリン王宮前を行進するヴィルヘルム2世と息子たち。左からヴィルヘルム2世、ヴィルヘルム、アイテル・フリードリヒアーダルベルトアウグスト・ヴィルヘルムオスカーヨアヒム(1913年)

第一次世界大戦勃発後の1914年8月、ヴィルヘルムは第5軍司令官に任命され西部戦線に赴任する。しかし、この時点でヴィルヘルムは連隊規模以上の部隊を指揮したことがなかったため、ヴィルヘルム2世はプロイセン参謀本部コンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフドイツ語版を参謀長に任命し、息子を補佐するように命じている[3]。ヴィルヘルム2世は「君に第5軍の指揮を委ねる。皇太子は君の判断に従うだろう」と発言しており、クノーベルスドルフが実質的な司令官となった[4]。10月には軍司令官として外国人特派員に向けて以下のプレス発表を行っている[5][6]

これは現代で最も愚かで無意味な戦争であります。これはドイツにとって望まない戦争ですが、我々は競争を望む世界において自分自身を守るために戦うという事実を私はあなたたちに保証します。 — 皇太子ヴィルヘルム
ヴィルヘルムとヒンデンブルク(1916年)

1916年ヴェルダンの戦いでドイツ軍を指揮するが、ヴェルダンの攻略に固執して戦力を逐次投入したため多大な損害を出す結果となった。被害の甚大さを痛感したクノーベルスドルフと参謀総長エーリヒ・フォン・ファルケンハインは攻撃の中止を進言するが、ヴィルヘルムは聞き入れず攻撃を承認させ戦闘を続行した。しかし、ロシア軍のブルシーロフ攻勢、イギリス軍のソンム攻勢が開始されると戦力を分散させる必要が出たため戦線は縮小していった。ヴィルヘルムは11月に第5軍司令官を退任したが、その後は軍集団「ドイツ皇太子」ドイツ語版司令官として軍務を執り続けた。1917年に参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフと帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが対立した際には、ルーデンドルフに与してホルヴェークの失脚に協力した。こうした行為は結果的にヴィルヘルム2世の影響力低下を招くこととなった。

1918年ドイツ革命が発生した際、参謀長フリードリヒ・フォン・デア・シューレンブルクドイツ語版カール・フォン・オイネムドイツ語版に亡命を進言され拒否したが、11月10日に人民委員評議会ドイツ語版によって軍集団司令官を解任される。参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルクは内戦を避けるためヴィルヘルム2世と共に亡命するように進言し、進言を受け入れたヴィルヘルムはオランダに亡命しウィーリンヘン島英語版に抑留された[7]。11月28日にヴィルヘルム2世が退位宣言書に署名し、12月1日にはヴィルヘルムも退位宣言書に署名した。

ヴァイマル共和政

左からヴィルヘルム、父ヴィルヘルム2世、長男ヴィルヘルム(1927年)

1921年、オランダを訪問したグスタフ・シュトレーゼマンと会談し、一市民としてドイツに帰国したい旨を伝えた。1923年にシュトレーゼマンがドイツ国首相に就任すると、政治活動をしないことを条件に帰国が認められ、11月23日にドイツに帰国してツェツィーリエンホーフ宮殿に再び居住した[8]

しかし、ヴィルヘルムはシュトレーゼマンとの約束を破り政治活動を始め、1928年にはベニート・ムッソリーニファシズムを称賛し、1930年には鉄兜団、前線兵士同盟に加わりハルツブルク戦線の結成に参加した[9]:131932年ドイツ大統領選挙ではヒンデンブルクとナチ党アドルフ・ヒトラーの競合で右翼の票が分散することを防ぐため、統一候補として出馬することをドイツ国家人民党と協議したが、オランダに亡命中の父から反対され中止し、ヒトラーを支持するようになる[9]:13

ヴィルヘルムとヒトラーは1926年にツェツィーリエンホーフ宮殿で会談しており、その際にヒトラーが帝政の復活を約束したことから両者の関係が始まった[10]1932年4月14日、ハインリヒ・ブリューニング内閣が突撃隊親衛隊の活動禁止令を出した際には、内務大臣ヴィルヘルム・グレーナーに抗議している[11] 。また、1933年に会談した際には「ヒトラー大統領、ヴィルヘルム首相」として権力を二分することを提案し、ヒトラーも提案を受け入れたが、この計画も父の反対に遭い失敗している[12]。この際、ヴィルヘルム2世は「計画を実行し首相になるということは共和国に忠誠を誓うということだ。もしそうするならば廃嫡し、ホーエンツォレルン家から追放する」と迫ったという[13]

ナチス・ドイツ

ヴィルヘルムとヒンデンブルク(1933年)

1933年1月30日、ヒトラー内閣が成立した際には「ヒトラーはムッソリーニのように成功を収めることになる」とヒトラーの首相就任を歓迎した。同年突撃隊に入隊し、1934年には国家社会主義自動車軍団(NSKK)に参加した[14]。ヴィルヘルムはナチ党の広告塔として各地を巡り、ヒトラー政権を宣伝して回った。ヴィルヘルムはジェラルディン・ファーラーに宛てた手紙に「ユダヤ人キリスト教徒を追放し経済危機を招いた。華麗なる指導者ヒトラーは共産主義者との戦いのために更なる時間を必要としており、全世界のために彼を称賛しなければならない」と記している[15]

しかし、1934年長いナイフの夜で友人であったクルト・フォン・シュライヒャーが粛清されると、ナチ党と距離を置くようになった[16]。また、側近のルイ・ミュルダール・フォン・ミュルンハイムドイツ語版が逮捕され、4週間に渡り拘留されたことで、ヒトラーは帝政を復活させる気がないと判断し、両者の関係が悪化した[17]1936年第二次エチオピア戦争に勝利したムッソリーニに祝電を送ったが、エチオピア帝国に武器を輸出して戦争の長期化を図っていたナチ党指導部と対立し、NSKKを脱退した[18]。その後は反ヒトラー派の中でも帝政復活を目指すグループとの関係を構築し、ヒトラー失脚後に皇帝に即位することを望んでいた。1941年に父が死去すると、プロイセン王家の家長を相続した。

ヴィルヘルムとヒトラー(1933年)

1944年7月20日事件が発生するとヴィルヘルム一家はゲシュタポの監視下に置かれるようになった[9]:11–151945年1月に胆嚢と肝臓の治療のためオーベルストドルフに向かい、ツェツィーリエと次男ルイ・フェルディナントは2月に赤軍から逃れるため、バート・キッシンゲンに疎開した。その後、ツェツィーリエンホーフ宮殿は赤軍に接収され、ポツダム会談の舞台になった[9]:15–16

1945年5月の敗戦時、ヴィルヘルムはフォアアールベルク州で逮捕され、第一次世界大戦時の戦争犯罪者としてリンダウに連行され、フランス軍のジャン・ド・ラトル・ド・タシニー大将の下で3週間拘留された後、ホーエンツォレルン城に軟禁された[19]。10月からはヘッヒンゲン英語版に移送され軟禁されるが、半径25キロ以内での行動の自由が認められた。1951年7月20日に長年に渡る喫煙が原因で心臓発作を起こし死去した。遺体はホーエンツォレルン城に埋葬され、後にツェツィーリエや子供たちの遺体も同地に埋葬された[20][21]

子女

孫娘フェリキタス英語版を抱くヴィルヘルム夫妻(1934年)

ヴィルヘルムは1905年6月6日にメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世の娘ツェツィーリエと結婚した。彼女との間には以下の4男2女をもうけた。

参考文献

脚注

  1. ^ Queen Victoria's Family, A Century of Photographs, Charlotte Zeepvat
  2. ^ "Kick it like Kronprinz" (ドイツ語) Spiegel Online. Retrieved 11 June 2009
  3. ^ Chief of Staff: Napoleonic wars to World War I, David Zabecki
  4. ^ Kronprinz Wilhelm: Meine Erinnerungen aus Deutschlands Heldenkampf. Mittler & Sohn, Berlin 1923, S. 4.
  5. ^ Elter page 74
  6. ^ Wiegand page 3
  7. ^ Friedrich Wilhelm Prinz von Preußen: Das Haus Hohenzollern 1918–1945. Langen Müller, München/Wien 2003, S. 281 ff; Karl von Einem: Ein Armeeführer erlebt den Weltkrieg. Hase & Koehler, Leipzig 1938, S. 468f
  8. ^ Die Rückkehr des Kronprinzen (Darstellung des Vorgangs in den Akten der Reichskanzlei im Bundesarchiv).
  9. ^ a b c d Müller, Heike; Berndt, Harald (2006). Schloss Cecilienhof und die Konferenz von Potsdam 1945 (German). Stiftung Preussische Schlösser und Gärten. ISBN 3-910068-16-2 
  10. ^ Kronprinzessin Cecilie: Erinnerungen an den Deutschen Kronprinzen. Biberach 1952.
  11. ^ Ernst Klee: Das Kulturlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945. S. Fischer, Frankfurt am Main 2007, S. 466.
  12. ^ Stephan Malinowski: Der braune Kronprinz, DIE ZEIT, Nr. 33 vom 13. August 2015
  13. ^ Günter Grützner, Manfred Ohlsen: Schloss Cecilienhof und das Kronprinzenpaar, Museums- und Galerie-Verlag, Berlin 1991, S. 46
  14. ^ Friedrich Wilhelm Prinz von Preußen: Das Haus Hohenzollern 1918–1945. S. 208.
  15. ^ Stephan Malinowski: Der braune Kronprinz, DIE ZEIT, Nr. 33 vom 13. August 2015
  16. ^ Hierzu und zum folgenden: Friedrich Wilhelm: Das Haus Hohenzollern. S. 215ff.
  17. ^ Hierzu und zum folgenden: Friedrich Wilhelm: Das Haus Hohenzollern. S. 215ff.
  18. ^ Friedrich Wilhelm Prinz von Preußen: Das Haus Hohenzollern 1918–1945. Langen Müller. München, Wien 2003, S. 281ff.
  19. ^ Siehe hierzu und zur Verhaftung: Friedrich Wilhelm: Das Haus Hohenzollern. S. 225f.
  20. ^ Preussen.de - Kronprinz Wilhelm”. 2016年4月4日閲覧。
  21. ^ Preussen.de - 50. Todestag der Kronprinzessin Cecilie”. 2016年4月4日閲覧。
ドイツの君主
先代
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プロイセン王家家長
1941年 - 1951年
次代
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1916年 - 1919年
次代
解体
先代
創設
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1914年 - 1916年
次代
マックス・フォン・ガルヴィッツドイツ語版