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2020年6月27日 (土) 02:49時点における版
カール Karl | |
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ハプスブルク=ロートリンゲン家 | |
2017年9月撮影 | |
全名 |
Karl Thomas Robert Maria Franziskus Georg Bahnam von Habsburg-Lothringen[1] カール・トーマス・ロベルト・マリア・フランツィスクス・ゲオルク・バーナム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン |
称号 | オーストリア大公 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1961年1月11日(63歳) 西ドイツ、バイエルン州シュタルンベルク |
配偶者 | フランツェスカ・ティッセン=ボルネミッサ |
子女 |
エレオノーレ フェルディナント・ズヴォニミル グロリア |
父親 | オットー・フォン・ハプスブルク |
母親 | レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン |
役職 |
国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部長(1986年 - ) 欧州議会議員(1996年 - 1999年) 代表なき国家民族機構事務局長(2002年1月19日 - 2002年12月31日) ブルーシールド国際委員会代表(2008年 - )[2] |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
カール・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Karl Habsburg-Lothringen, 1961年1月11日 - )は、ハプスブルク=ロートリンゲン家の現当主。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルクと、ザクセン=マイニンゲン公女レギーナの長男。最後のオーストリア皇帝・福者カール1世と皇后ツィタの孫。
「カール・フォン・ハプスブルク(Karl von Habsburg)」を称しており[3][注釈 1]、ヨーロッパ諸国の王侯貴族やローマ教皇、王党派からは今なお「オーストリア大公」や「殿下」などの伝統的称号・敬称で呼ばれる。また本人は表立って主張していないものの、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、クロアチア等の帝位・王位請求者とされる。
父オットーと同じく汎ヨーロッパ主義者として知られ、1996年から1999年まで欧州議会議員を務め(オーストリア国民党所属)、現在は国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部長。その他、代表なき国家民族機構事務局長、ブルーシールド国際委員会代表などを歴任する。
事業家でもあり、オランダ、ウクライナ、ブルガリア、オーストリアのメディア事業を手掛けている[4]。
生涯
1961年1月11日、約43年前に崩壊したオーストリア=ハンガリー帝国において皇太子の身位にあったオットー・フォン・ハプスブルクの長男として、西ドイツ・バイエルン州のシュタルンベルクにて誕生した。洗礼の際、父オットーは受洗者名簿に「オーストリア大公カール(Erzherzog Karl von Österreich)」と記載した[6]。
カールの生誕当時、オーストリア共和国は王朝との絶縁を宣言しなければハプスブルク家の入国を認めない姿勢をとっており、カールが誕生した直後の1961年7月、父オットーはオーストリア入国のために、ハプスブルク王朝と絶縁することと、あらゆる支配権の要求を放棄することを宣誓した[7]。カールはこの際にハプスブルク家の領地に対する個人的請求権を移譲され[8]、1歳に満たない年齢でハプスブルク家の形式的な家長となった[注釈 3]。
ミシガン州立大学で法学と哲学を学んだのち[4]、徴兵されてオーストリア空軍に所属した[4]。
1981年、ザルツブルクに居を構える。1990年代後半から、ヘルブルン宮殿にほど近く、かつてルドルフ皇太子とシュテファニー皇太子妃も新婚旅行の際に宿泊した「ヴィラ・スウォボダ」に住むようになった。
1986年、国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部の代表となった。
1989年3月14日、元オーストリア皇后で祖母のツィタ・フォン・ブルボン=パルマが96歳で崩御した。同年10月、英国のTV番組「アフター・ダーク」に出演した。
1993年1月31日、ティッセン=ボルネミッサ男爵家のフランツェスカと、マリアツェルの教会で結婚式を挙げた[9][注釈 4]。花嫁の父ハンス・ハインリヒ・ティッセン=ボルネミッサは、世界で最も裕福な者として名が挙がる人物ではあったが[9]、新興の男爵であり、ハプスブルク家の伝統に従えば貴賤結婚に相当するものだった。このため、結婚式の翌日の新聞は、一斉に「ハプスブルク王朝の終わりの終わり」と報じた[10]。新聞報道によれば、参列したハプスブルク一族の中には、宗家の「貴賤結婚」に不満を漏らす者もいたという[10]。
1996年10月、オーストリアの欧州連合加盟後初となる欧州議会議員選挙に、オーストリア国民党から出馬し、当選した[11]。当時は父オットーもドイツ選出の欧州議会議員であった。
「 | 私の家系は代々政治のプロだった。政治家になることに何の違和感もない[11]。 | 」 |
しかし、カールが理事を務めていたワールド・ビジョン・オーストリアの寄付金スキャンダルに巻き込まれ、1999年に欧州議会議員としての活動を断念した。皇帝の孫の不祥事は、オーストリアのマスコミを大いに賑わせた。カールへの非難は、息子は不当に攻撃されていると父オットーが述べたことで悪化した。
2000年11月30日、オットーから金羊毛騎士団長の座を譲られた。
2002年1月19日から同年12月31日まで、代表なき国家民族機構の事務局長を務めた。
2007年、オットーからハプスブルク家の家督を正式に譲られた[注釈 5]。
2008年、ブルーシールド国際委員会の初代代表に就任した[4]。
2011年7月4日、オットーが98歳で死去した。ローマ教皇ベネディクト16世が発した弔意の宛先は、「Seiner Kaiserlichen Hoheit Erzherzog Karl von Österreich(オーストリア大公カール殿下)」だった[12][注釈 6]。
2014年4月、欧州連合加盟を支援するためにセルビアを訪れ、ニコリッチ大統領やダチッチ首相、王太子アレクサンダル2世などと会見した[14]。
2015年7月4日、トンガ国王トゥポウ6世の戴冠式に、弟ゲオルクらとともに参列した。
2016年11月5日、ハプスブルク一門およそ300人を引き連れてバチカン宮殿を訪れ、ローマ教皇フランシスコに謁見した[15][16]。
2017年12月16日、弟ゲオルクや各国の王侯貴族とともに、元ルーマニア国王ミハイ1世の国民葬に参列した[17]。
2019年2月2日、弟ゲオルクや各国の王侯貴族とともに、オルレアン家当主パリ伯アンリの葬儀に参列した[18]。
人物・思想
君主制・貴族制
カールは「皇帝とはなりたくてなるものではない[19]」として、もしハプスブルク君主国が存続していたなら得られなかったであろう自由を今日享受できていることに対する喜びを表明している。一方で、帝位・王位請求者としての直接的な言及は避けているものの、「君主制は時代遅れではない[3]」との考えも持っており、将来的にはオーストリアなどにおける政体の変化もありうるという見解をしばしば述べている。
2013年にスロバキアのメディアからのインタビューに応じた際には、「100年前、この地域(=ドナウ川流域諸国)は一人の君主で結ばれていて、誰も数年でバラバラになるとは思っていなかった。だから、未来がどうなるかは分からない」と答えている[20]。
なお、2019年現在、オーストリアのシュヴァルツ=ゲルベ・アリアンツやチェコのチェコ・コルナなど、中央ヨーロッパに立憲君主制を再導入しようとする王党派も少数ながら活動している。帝国崩壊からちょうど100年にあたる2018年11月11日、「ここ数年間のいくつかの世論調査によると、オーストリア国民のうち最大で20%が君主制への復帰に賛成するだろう」とEFEが報じた[21]。帝位継承者たるべきカール当人が帝位を望んでいないことは、君主主義者たちのジレンマになっている[22]。
自身が玉座に即くことを意味する帝政復古には消極的である一方で、貴族文化の保護には精力的である。2019年現在、オーストリアでは「フォン」の名乗りに至るまで、貴族称号が公的には一切認められていない。しかし父のオットーが「オットー・フォン・ハプスブルク」として知られていたので、同様に「カール・フォン・ハプスブルク」を称している[19]。カールは、ドイツやスイスのようにオーストリアでも貴族姓が認められるべきだと考えている[19]。2015年には、称号「オーストリア大公」の復活を望んだと伝えられる[23]。カールは貴族階級を「歴史から明確に学習した巨大な利益集団」と表現し、世襲貴族と実力主義の共存を願うと語っている[3]。
ハプスブルク法
第一次世界大戦後に制定されたハプスブルク法によって、一族の数多くの私有財産が不当に没収されたとカールは考えており、没収された旧帝室財産からなる「戦災未亡人と孤児救済のための基金」が1928年に解散した時点で、ハプスブルク家への財産返還があるべきだったとしている[19][24]。2018年10月、父オットーや祖母ツィタらの第二次世界大戦期における活動にもかかわらずハプスブルク法が戦後に復活したことは、(一族にとって)侮辱的だと述べた[19]。
欧州連合(EU)
カールは、父オットーと同じく明確な汎ヨーロッパ主義者として知られる。2014年4月、訪問先のセルビアで「第一次世界大戦の開戦責任をセルビアに負わせることはできません。特定の国や個人の責任ではなく、サラエボ事件が起こらなくても、ヨーロッパのどこか別の場所で事件が起こり世界大戦となったでしょう」と持論を述べ、またセルビア抜きでは欧州連合は未完成だと語っている[14]。
民族主義に警鐘を鳴らしているが、欧州懐疑主義の高まりを受けて、官僚主義的な今のEUには改革の必要性があると考えている。また2015年欧州難民危機以降にイスラム教徒がヨーロッパに殺到していることを受けて、移民・難民の受け入れ人数を制限するなどしてキリスト教的価値観に基づくヨーロッパを護持すべきだと唱えている[25]。
家族
妻フランツェスカ・ティッセン=ボルネミッサとの間に1男2女をもうけているが、結婚生活が破綻したため双方合意の上、2003年から別居生活を送っている。
フランツェスカとの結婚は、かつてのハプスブルク一族の家法に従えば貴賤結婚に相当するものだった。しかし、父オットーが一族の中で同意を得て1980年代に基準を緩和していたことから、妻子の権利が制限されることはない。そのため、長男フェルディナント・ズヴォニミルがハプスブルク=ロートリンゲン家の推定相続人である。
栄典
ハプスブルク家
- 金羊毛騎士団 (オーストリア支流)
- 騎士団長 (2000年-)
- 聖ゲオルク騎士団
- 騎士団長 (2011年-)
- ヨーロッパ聖セバスティアン騎士団
- 騎士団長 (2008年8月-)
その他
- マルタ騎士団: Knight Grand Cross of Justice of the Sovereign Military Order of Malta
- トンガ: Knight Grand Cross of the Order of the Royal Household, Special Class
- トンガ: Recipient of the King Tupou VI Coronation Medal
脚注
注釈
- ^ 2018年現在のオーストリア共和国では、貴族称号が「フォン」の名乗りに至るまで公的には一切認められていないため、「カール・ハプスブルク」または「カール・ハプスブルク=ロートリンゲン」が法律上の名前となる。
- ^ 2018年10月27日現在、日本円にして約28億1000万円である。
- ^ なお祖母でかつてのオーストリア皇后ツィタは、皇帝カール1世は国事行為を断念しただけで退位はしていないと生涯にわたって主張していた。オットーに代わってハプスブルク家の家長となった時から、カールは祖母ツィタのような正統主義者から見れば正当なオーストリア皇帝「カール2世」、ハンガリー国王「カーロイ5世」、ボヘミア国王「カレル4世」、クロアチア国王「カルロ5世」となる。
- ^ ティッセン=ボルネミッサ男爵がハンガリー貴族さながらの華やかな恰好だったのに対して、参列したハプスブルク一門はみな質素な恰好であった[9]。結婚式の後、カールはインタビューの中で、帝政廃止後のハプスブルク家には財産がないから生活のために働かねばならなかったことを明らかにしている[9]。
- ^ 1961年のオットーの帝位継承権の放棄宣言に伴ってカールがハプスブルク家の家長になったと考えられるが、オットーの宣言は一族間では名目的なものとされ、実際にはオットーが引き続き家督を担っていた。
- ^ なお岩﨑周一は、自著『ハプスブルク帝国』の中でこれを「皇帝陛下オーストリア大公カール[13]」と表現している。
出典
- ^ Bernhard Ecker (2018年4月). “Karl Habsburg: "Keine ererbten Lorbeeren mehr"”. トレンド (雑誌) 2018年12月13日閲覧。
- ^ http://www.ancbs.org/cms/en/contact
- ^ a b c Horst Thoren (2018年10月18日). “Karl von Habsburg: "Die Monarchie ist nicht von gestern"”. Rheinische Post 2018年10月27日閲覧。
- ^ a b c d “Tohle by byl náš král! Kdyby nezanikla rakousko-uherská monarchie”. Aha!. (2018年12月23日) 2019年2月5日閲覧。
- ^ “Habsburg-Villa in Salzburg ist um 22 Millionen Euro zu haben”. Salzburger Nachrichten. (2018年8月3日) 2018年10月27日閲覧。
- ^ 岩﨑(2017), p. 394.
- ^ ジェラヴィッチ(1994), p. 245.
- ^ a b ウィートクロフツ(2009), p. 370.
- ^ a b c d ウィートクロフツ(2009), p. 369.
- ^ a b 菊池(2016) p.5
- ^ a b 世界王室マップ(1997), p. 199.
- ^ “Benedikt XVI. würdigt Otto von Habsburg”. kath.net. (2011年7月9日) 2018年11月6日閲覧。
- ^ 岩﨑(2017), p. 403.
- ^ a b Sandra Mališić (2014年4月7日). “Karl fon Habzburg: Srbija nije krivac za Prvi svetski rat”. Kurir 2018年10月27日閲覧。
- ^ ““The 21st-century Habsburg mission”. The Catholic Herald. (2016年11月16日) 2018年11月6日閲覧。
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=WGP8M7qH0vk&feature=youtu.be
- ^ “Rumänien verabschiedet sich mit Pomp von König Michael I.”. オーストリア放送協会. (2016年11月16日) 2018年12月13日閲覧。
- ^ “Funérailles capétiennes”. lincorrect. (2019年2月4日) 2019年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e “Karl Habsburg: "Kaiser zu sein, ist kein Job, den man anstrebt“”. Kurier. (2018年10月28日) 2018年12月12日閲覧。
- ^ “Exkluzívny ROZHOVOR s Karlom von Habsburgom: Verí v návrat monarchie na Slovensku?!”. Zoznam.sk. (2013年10月10日) 2018年10月27日閲覧。
- ^ Jordi Kuhs (2018年11月11日). “A century after Austrian-Hungarian Empire's fall, some nostalgic for monarchy”. EFE 2018年12月4日閲覧。
- ^ Michaela Reibenwein (2019年1月21日). “Monarchisten: Die Sehnsucht nach dem Kaiser”. Trouw 2019年2月5日閲覧。
- ^ Runa Hellinga (2019年1月29日). “Een Nederlandse achternaam blijkt al snel te adellijk voor Oostenrijk”. Kurir 2019年2月5日閲覧。
- ^ a b “Archduke Franz Ferdinand descendant: don't blame us for first world war”. ガーディアン. (2014年1月15日) 2019年2月5日閲覧。
- ^ a b 小原健右 (2018年11月21日). “あのハプスブルク家が今も?騎士団“復活”のなぜ”. NHK 2018年12月11日閲覧。
参考文献
- バーバラ・ジェラヴィッチ 著、矢田俊隆 訳『近代オーストリアの歴史と文化:ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』山川出版社、1994年。ISBN 4-634-65600-0。
- 『世界王室マップ』時事通信社、1997年1月。ISBN 978-4788797017。
- アンドリュー・ウィートクロフツ 著、瀬原義生 訳『ハプスブルク家の皇帝たち:帝国の体現者』文理閣、2009年。ISBN 978-4-89259-591-2。
- 菊池良生『超説ハプスブルク家:貴賤百態大公戯』エイチアンドアイ、2016年2月。ISBN 9784908110030。
- 岩﨑周一『ハプスブルク帝国』講談社現代新書、2017年8月。ISBN 978-4-06-288442-6。
外部リンク
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