「フィリップ・アルブレヒト・フォン・ヴュルテンベルク」の版間の差分
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2020年6月27日 (土) 02:48時点における版
フィリップ・アルブレヒト Philipp Albrecht | |
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ヴュルテンベルク家家長 | |
フィリップ・アルブレヒト(一番右、1903年) | |
在位 | 1939年 - 1975年 |
全名 |
一覧参照
|
称号 | ヴュルテンベルク公 |
出生 |
1893年11月14日 ドイツ帝国 ヴュルテンベルク王国、シュトゥットガルト |
死去 |
1975年4月15日(81歳没) 西ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州ラーベンスブルク、アルツハウゼン城 |
埋葬 | 西ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州ラーベンスブルク、アルツハウゼン |
配偶者 | ヘレーネ |
ローザ | |
子女 |
一覧参照
|
家名 | ヴュルテンベルク=アルツハウゼン家 |
父親 | アルブレヒト |
母親 | マルガレーテ・ゾフィー |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
フィリップ・アルブレヒト・ヘルツォーク・フォン・ヴュルテンベルク(ドイツ語: Philipp Albrecht Herzog von Württemberg, 1893年11月14日 - 1975年4月15日)は、ドイツの旧諸侯ヴュルテンベルク王家家長(1939年 - 1975年)。
生涯
ヴュルテンベルク公アルブレヒトとその妃のオーストリア大公女マルガレーテ・ゾフィーの間の長男として生まれた。シュトゥットガルトのエーバーハルト・ルートヴィヒ中等学校で学び、テュービンゲン大学で1年間法学を学んだ後、1912年よりヴュルテンベルク王国軍の第119歩兵連隊所属の陸軍中尉となった。
第一次世界大戦が始まると、フィリップ・アルブレヒトは東部戦線でセルビア軍との戦闘に従軍した。1918年11月にドイツ革命が起きると、当時陸軍少佐となっていたフィリップ・アルブレヒトは実質的な退役を余儀なくされた。テュービンゲン大学に戻り、1925年に博士号を所得すると同時に学業を終えた。ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世が1918年に退位してヴュルテンベルク王国は消滅していたため、王位継承予定者だった父アルブレヒトとフィリップ・アルブレヒトが王位を引き継ぐことが叶わなかった。フィリップ・アルブレヒトは次期王位継承者として教育されていたため、君主制こそが最も優れた政体だと生涯信じ続けていた。
ナチ党の勢力伸長を忌み嫌ったフィリップ・アルブレヒトは1933年11月の総選挙には投票せず、ナチ党の権力者たちと敵対した。ヴュルテンベルク家の人々はナチ党と戦う姿勢を見せ、ベネディクト会の修道士になって「オド神父」と名乗っていたフィリップ・アルブレヒトの弟カール・アレクサンダーは、1940年にアメリカ合衆国に亡命して多くの慈善団体に働きかけ、ユダヤ人難民の救援に奔走した。
フィリップ・アルブレヒトは1934年に自分の居城である王太子宮殿に鉤十字の旗を掲げるのを拒み、家族とともにシュトゥットガルトを追い出された。彼は父の居城であるアルツハウゼン城に移った。1939年に父が死去すると、フィリップ・アルブレヒトはヴュルテンベルク家家長の地位を引き継ぎ、一族の所有する莫大な所領を経営していくことになった。1975年、父と同様にアルツハウゼン城で亡くなり、アルツハウゼンに埋葬された。長男のルートヴィヒは1959年にヴュルテンベルク王家の成員としての地位を放棄したため、1960年からフィリップ・アルブレヒトの後継者となっていた次男カールが家長位を継いだ。
子女
1923年10月24日、アルツハウゼンでトスカーナ大公家家長ペーター・フェルディナントの長女であるオーストリア大公女ヘレーネ(1903年 - 1924年)と結婚した。ヘレーネは娘を一人産んだ直後にフリードリヒスハーフェンで亡くなった。
- マリー・クリスティーネ(1924年 - ) - 1948年、リヒテンシュタイン侯子ゲオルク・ハルトマン(リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ2世の弟)と結婚
1928年8月1日、ヘレーネの妹であるオーストリア大公女ローザ(1906年 - 1983年)と再婚した。夫妻は2男4女を儲けた。
- ヘレーネ(1929年 - ) - 1961年、フェデリーコ・パラヴィチーニ侯爵と結婚
- ルートヴィヒ(1930年 - 2019年) - 貴賤結婚のためヴュルテンベルク王位継承権を放棄
- エリーザベト(1933年 - ) - 1958年、両シチリア王子アントワーヌ(ガブリエーレの長男)と結婚
- マリー・テレーゼ(1934年 - ) - 1957年にパリ伯およびフランス公アンリと結婚、1984年に離婚
- カール(1936年 - ) - ヴュルテンベルク家家長を継承
- マリー・アントニエッテ(1937年 - 2004年)
参考文献
- Eberhard Fritz: Das Haus Württemberg und der Nationalsozialismus. Motive des Widerstands gegen Hitler und seine Bewegung. In: Christopher Dowe (Hg.): Adel und Nationalsozialismus im deutschen Südwesten (Stuttgarter Symposion, Band 11). Stuttgart 2007. S. 132-162.
- Das Haus Württemberg - ein biographisches Lexikon, Kohlhammer 1997, ISBN 3-17-013605-4, S. 419 f.
先代 アルブレヒト |
ヴュルテンベルク家家長 1939年 - 1975年 |
次代 カール |