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[[三室戸寺]]を中興し、嵯峨釈迦堂別当在任時、[[清凉寺]]の三国伝来の釈迦像を模刻して三室戸寺に安置している。[[梵釈寺|梵釈寺別当]]、[[法成寺|法成寺寺務執行]]を歴任し、[[承徳]]2年([[1098年]])4月、園城寺長吏に補任され、[[康和]]4年([[1102年]])5月に大僧正に至った。[[長治]]元年([[1104年]])9月14日、三室戸寺に86歳で[[入寂]]。「''真言を深く知り、頗る止観を学ぶ、甚だ験力有り''」と評された<ref>『[[中右記]]』[[長治]]元年9月15日条。</ref>。付法に[[勝覚 (天台宗)|勝覚]]・[[永快]]・[[証昭]]・[[定覚 (天台宗)|定覚]]・[[基明]]・[[澄覚]]・[[顕覚]]・[[義範]]・[[静証]]・[[尊義]]・[[範賢]]・[[珍範]]がいた<ref>『[[園城寺伝法血脈]]』。</ref>。『[[続後撰和歌集]]』に和歌1首が入集している。 |
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隆明(りゅうみょう、寛仁3年(1019年) - 長治元年9月14日(1104年10月4日))は平安時代中期から後期にかけての天台宗の僧。権中納言・藤原隆家の子。羅惹院僧正または三室戸寺を中興して三室戸僧正と号す。三井(園城寺)の門流で増誉とならび称された。
園城寺の心誉・明尊に師事。治暦元年12月(1066年1月)に権律師に任ぜられる。白河天皇・堀河天皇の護持僧を務め、承保元年12月27日(1075年1月16日)にその功が賞されて権少僧都に任ぜられる。承徳2年(1075年)正月に法印に叙せられ、応徳3年(1086年)11月、大僧都に昇任した。寛治5年(1091年)5月6日、権僧正に補任。同年郁芳門院の御悩の平癒を祈願している。寛治6年(1092年)崇福寺別当となる。この間の承暦4年(1080年)に白河上皇の御願により園城寺に羅惹院を建立した。嘉保2年(1095年)輦車をゆるされる。
三室戸寺を中興し、嵯峨釈迦堂別当在任時、清凉寺の三国伝来の釈迦像を模刻して三室戸寺に安置している。梵釈寺別当、法成寺寺務執行を歴任し、承徳2年(1098年)4月、園城寺長吏に補任され、康和4年(1102年)5月に大僧正に至った。長治元年(1104年)9月14日、三室戸寺に86歳で入寂。「真言を深く知り、頗る止観を学ぶ、甚だ験力有り」と評された[1]。付法に勝覚・永快・証昭・定覚・基明・澄覚・顕覚・義範・静証・尊義・範賢・珍範がいた[2]。『続後撰和歌集』に和歌1首が入集している。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「隆明」(僧綱補任(群書類従補任部))
- 佐々木令信「隆明」(吉川弘文館『國史大辭典 7』、1993年)