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「承胤法親王」の版間の差分

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'''承胤法親王'''(しょういんほっしんのう、[[文保]]元年([[1317年]]) - [[天授 (日本)|天授]]3年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1377年]][[5月16日]]))は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[法親王]]。父は[[後伏見天皇]]。母は[[従三位]][[正親町守子|正親町(藤原)守子]]([[権大納言]][[正親町実明]]女)。'''光聚院宮'''とも称される。[[光厳天皇]]・[[光明天皇]]らの異母兄弟で、同母兄弟に[[長助法親王]]・[[亮性法親王]]・璜子内親王([[こう子内親王|章徳門院]])がいた。
'''承胤法親王'''(しょういんほっしんのう、[[文保]]元年([[1317年]]) - [[天授 (日本)|天授]]3年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1377年]][[5月16日]]))は、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[法親王]]。父は[[後伏見天皇]]。母は[[従三位]][[正親町守子|正親町(藤原)守子]]([[権大納言]][[正親町実明]]女)。'''光聚院宮'''とも称される。[[光厳天皇]]・[[光明天皇]]らの異母兄弟で、同母兄弟に[[長助法親王]]・[[亮性法親王]]・璜子内親王([[子内親王|章徳門院]])がいた。


== 略歴 ==
== 略歴 ==

2020年6月26日 (金) 23:25時点における版

承胤法親王
続柄 後伏見天皇皇子

身位 二品・法親王
出生 文保元年(1317年
死去 天授3年4月9日1377年5月16日)(享年61)
父親 後伏見天皇
母親 正親町守子
役職 梶井門跡
天台座主
四天王寺別当
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承胤法親王(しょういんほっしんのう、文保元年(1317年) - 天授3年4月9日1377年5月16日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての法親王。父は後伏見天皇。母は従三位正親町(藤原)守子権大納言正親町実明女)。光聚院宮とも称される。光厳天皇光明天皇らの異母兄弟で、同母兄弟に長助法親王亮性法親王・璜子内親王(章徳門院)がいた。

略歴

元弘元年(1331年)7月に出家得度。その後、梶井門跡(三千院)を継承し、興国5年(1344年)以降天台座主に3度就任している。その間、正平14年(1359年)8月に四天王寺別当になり、文中元年(1372年)には後光厳上皇院宣により梨本門跡(三千院)に還住した。二品に叙せられ、天授3年4月9日入寂。享年61。