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*[[治承]]元年([[1177年]])11月15日、母の喪が明けて復任<ref>この時、兼ね房から兼定に改名。</ref>。
*[[治承]]元年([[1177年]])11月15日、母の喪が明けて復任<ref>この時、兼ね房から兼定に改名。</ref>。
*治承3年([[1179年]])還任して昇殿を許された。
*治承3年([[1179年]])還任して昇殿を許された。
*[[寿永]]2年([[1183年]])1月5日、正五位下に昇叙<ref>[[しゅ子内親王|高松院]]の安元2年御給。</ref>。
*[[寿永]]2年([[1183年]])1月5日、正五位下に昇叙<ref>[[子内親王|高松院]]の安元2年御給。</ref>。
*[[文治]]5年([[1189年]])9月26日、[[木工寮|木工頭]]に任ぜられる<ref>前年10月に弟兼忠は参議に任ぜられている。</ref>。
*[[文治]]5年([[1189年]])9月26日、[[木工寮|木工頭]]に任ぜられる<ref>前年10月に弟兼忠は参議に任ぜられている。</ref>。
*[[建久]]元年([[1190年]])10月9日、父・雅頼の喪が明けて復任した。
*[[建久]]元年([[1190年]])10月9日、父・雅頼の喪が明けて復任した。

2020年6月26日 (金) 23:22時点における版

 
源兼定
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 久安5年(1149年
死没 建保4年6月16日1216年7月2日
改名 雅能(初名)→兼房→兼定
官位 従三位治部卿
主君 鳥羽上皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 村上源氏雅兼流
父母 父:源雅頼、母:源盛定の娘
兄弟 兼定兼忠頼房、範雅、明昌、任雅、定真、聖雅、中院通方室、西園寺公経
定平、兼平、家兼、隆兼、定実、国平、兼遍、澄舜、定成
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源 兼定(みなもと の かねさだ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿

経歴

村上源氏雅兼流、権中納言源雅頼の長男。官位従三位治部卿

母は太皇太后宮少進源盛定の娘。初名は雅能、兼房と改名し、さらに兼定と改めた。弟・兼忠に比べると極めて遅い昇進であるため、雅頼の事実上の嫡子は兼忠であったと考えられる。生母の出自も兼忠の母の方が格上である。

官歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

脚注

  1. ^ 禎子合爵。
  2. ^ この時、雅能から兼房に改名。
  3. ^ この時、兼ね房から兼定に改名。
  4. ^ 高松院の安元2年御給。
  5. ^ 前年10月に弟兼忠は参議に任ぜられている。
  6. ^ この時、蔵人を辞める。木工頭は元の如し。
  7. ^ 息男家兼を左近衛権少将に挙任のため。
  8. ^ 息男定平を侍従に挙任のため。

出典