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==歴史==
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===キエフ・ルーシ期===
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『ドルツクの福音書』[[:be:Друцкае Евангелле|(be)]]から、[[10世紀]]には既に街があったことが確認されている。また発掘調査から、[[1001年]]には最初の教会が建てられていたことが証明されている。年代記での初出は[[1092年]]である<ref>國本哲男『ロシア原初年代記』236頁</ref>。なお『モノマフの庭訓』[[:ru:Поучение Владимира Мономаха|(ru)]]の中では、[[1078年]]の出来事に関する回想の中に名が上がっている<ref>國本哲男『ロシア原初年代記』267頁</ref>。位置的にはドルツクは[[ヴァリャーグからギリシへの道]]の一部である、[[西ドヴィナ川]]への[[連水陸路]]の一つに面して建設された。
『ドルツクの福音書』[[:be:Друцкае Евангелле|(be)]]から、[[10世紀]]には既に街があったことが確認されている。また発掘調査から、[[1001年]]には最初の教会が建てられていたことが証明されている。年代記での初出は[[1092年]]である<ref>國本哲男『ロシア原初年代記』236頁</ref>。なお『モノマフの庭訓』[[:ru:Поучение Владимира Мономаха|(ru)]]の中では、[[1078年]]の出来事に関する回想の中に名が上がっている<ref>國本哲男『ロシア原初年代記』267頁</ref>。位置的にはドルツクは[[ヴァリャーグからギリシへの道]]の一部である、[[西ドヴィナ川]]への[[連水陸路]]の一つに面して建設された。


[[11世紀]] - [[12世紀]]に、ドルツクはポロツク公国の一部となった。[[フセスラフ・ブリャチスラヴィチ|フセスラフ]]の治世の後の争いの時代{{refnest|group="注"|[[ポロツク公国#公国の分裂]]参照。}}に、街は[[ポロツク公]]位をめぐる争いに巻き込まれた。[[1101年]]に[[ドルツク公国]]の首都となり、[[1116年]]にほぼ完全に破壊されたが、再び復興された。街は強化され、ドルツク公国は、ポロツク公国の内外への影響力を高めようと画策しはじめた。
[[11世紀]] - [[12世紀]]に、ドルツクはポロツク公国の一部となった。[[フセスラフ・ブリャチスラヴィチ|フセスラフ]]の治世の後の争いの時代{{refnest|group="注"|[[ポロツク公国#公国の分裂]]参照。}}に、街は[[ポロツク公]]位をめぐる争いに巻き込まれた。[[1101年]]に[[ドルツク公国]]の首都となり、[[1116年]]にほぼ完全に破壊されたが、再び復興された。街は強化され、ドルツク公国は、ポロツク公国の内外への影響力を高めようと画策しはじめた。

2020年6月26日 (金) 23:13時点における版

ドルツク
Друцк
座標 : 北緯54度20分00秒 東経29度46分00秒 / 北緯54.33333度 東経29.76667度 / 54.33333; 29.76667
歴史
建設 11世紀
初出 1078年
旧名 ドリュテスク等
行政
 ベラルーシ
  ヴィーツェプスク州の旗 ヴィーツェプスク州
 地区 タラチィン地区
 村ソヴィエト タラチィン村ソヴィエト
 村落 ドルツク
人口
人口 (1991年現在)
  村落域 260人
その他
等時帯 FET (UTC+3)
郵便番号 211076
位置図
ドルツクの位置(ベラルーシ内)
ドルツク
ドルツク (ベラルーシ)

ドルツクベラルーシ語: Друцк)はベラルーシヴィーツェプスク州タラチィン地区(be)タラチィン村ソヴィエト(bex)の村落(ベラルーシ語: аграгарадок)である[注 1]ドルツィ川の右岸に位置し、マヒリョウ州との境界に近い。人口は1991年の時点で260人。

キエフ・ルーシ時代にはルーシの都市の一つだった。最初はポロツク公国に属していたが、後にドルツク公国の首都となった。現在は都市の内城や都市界隈の廃墟が残っている。また、ドルツィ川左岸には都市郊外の商工地帯やクルガン様式のネクロポリスが残っている。調査による多数の発見が、手工業・商業・文字体系の発展を証明している。キエフ・ルーシ時代の後はドルツキー家(be)の所領となった。

歴史

キエフ・ルーシ期

『ドルツクの福音書』(be)から、10世紀には既に街があったことが確認されている。また発掘調査から、1001年には最初の教会が建てられていたことが証明されている。年代記での初出は1092年である[1]。なお『モノマフの庭訓』(ru)の中では、1078年の出来事に関する回想の中に名が上がっている[2]。位置的にはドルツクはヴァリャーグからギリシアへの道の一部である、西ドヴィナ川への連水陸路の一つに面して建設された。

11世紀 - 12世紀に、ドルツクはポロツク公国の一部となった。フセスラフの治世の後の争いの時代[注 2]に、街はポロツク公位をめぐる争いに巻き込まれた。1101年ドルツク公国の首都となり、1116年にほぼ完全に破壊されたが、再び復興された。街は強化され、ドルツク公国は、ポロツク公国の内外への影響力を高めようと画策しはじめた。

1151年、ポロツク公位を追われたログヴォロドスルツクへ逃亡するのを助け、ログヴォロドのポロツク公復帰を支援する意志を表明した。1158年チェルニゴフ公スヴャトスラフの援助を受けたログヴォロドがドルツクへ赴いたとき、ドルツクの人々は街からグレプ(当時のポロツク公ロスチスラフの子)を追放した。ロスチスラフが報復攻撃を始めると、ログヴォロドを擁護するドルツクの人々は頑強に抵抗した。この争いは結果としてはログヴォロドが妥協し、ポロツク公位の請求権を放棄し、ドルツクに公として留まった(なお、ログヴォロドは1159年に再びポロツク公となる。)

ドルツクは13世紀初めに全盛期を迎え、14世紀の初めにはリトアニア大公国の一部となった。

リトアニア大公国期

リトアニアの支配下において、街は細分化され、ドルツキー家から派生した分家や、以前にドルツク公国の一部を受領していた人々などによって支配された。考古学的研究や文書史料は、当時のドルツクが重要な防衛拠点だったことを証明している。 ドイツ人ヨハン・ゲオルグ・コルブの17世紀末の記述[注 3]によると、16世紀のドルツクは周囲7マイルの広さがあり、200の美しい聖堂で有名だったが、過酷な戦争でことごとく焼失し、荒廃したという。考古学的史料によると、火災か包囲戦による街の崩壊は、15世紀末から16世紀初めのこととされる。

リトアニア大公国とモスクワ大公国との戦争で、ドルツクの所有権は両者の間を行き来した。17世紀までドルツク城が存在していたが、街も城も破壊と復元が繰り返された。ドルツクは政治・経済・軍事的価値を失い、またリトアニア・モスクワ双方への課税によって、人口減少が引き起こされた。

近代・現代

観光

  • 城址(11世紀 - 16世紀)
  • ゴルドジャルコフスキー家の屋敷(19世紀末 - 20世紀初)
  • 生神女誕生教会(2001年)

脚注

注釈

  1. ^ 村ソヴィエト(セリソヴィエト)についてはru:Сельсоветen:Selsoviet参照。
  2. ^ ポロツク公国#公国の分裂参照。
  3. ^ Дневник путешествия в Московию(意訳:モスクワ旅行記)の記述。なお「ヨハン・ゲオルグ・コルブ」はロシア語表記(Иоганн Георг Корб)の日本語転写。

出典

  1. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』236頁
  2. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』267頁

参考文献

  • Алексеев Л. В. Полоцкая земля // Очерки истории Северной Белоруссии. IX—XIII вв.— М., 1966.
  • Друцк // Древняя Русь. Город, замок, село / Под ред. Б. А. Колчина.— М.: Наука, 1985.
  • Друцк старажытны: Да 1000-годдзя ўзнікнення горада / Рэд. кал.: Г. П. Пашкоў (гал. рэдактар) і інш.— Мн.: БелЭН, 2000. 128 с.
  • Мяснікоў А. Горад на вольнай Друці… // Звязда, 27.06.2001.
  • 國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。