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「ポロチャーネ族」の版間の差分

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'''ポロチャーネ族'''({{lang-be|Палачане}}、{{lang-uk|Полочани}}、{{lang-ru|Полочане}})は[[東スラブ人]]の一派であり、[[クリヴィチ族]]の同族である。現在の[[ヴィーツェプスク州]]と[[ミンスク州]]を居住地とし、ポロチャーネ族の移住した土地は[[ポロツク公国]]へ発展した。
'''ポロチャーネ族'''({{lang-be|Палачане}}、{{lang-uk|Полочани}}、{{lang-ru|Полочане}})は[[東スラブ人]]の一派であり、[[クリヴィチ族]]の同族である。現在の[[ヴィーツェプスク州]]と[[ミンスク州]]を居住地とし、ポロチャーネ族の移住した土地は[[ポロツク公国]]へ発展した。


中世において[[ダウガヴァ川]]と[[ドニエプル川]]に沿って水上路が[[北欧]]と[[地中海]]とを繋いでいた。その道は、『[[原初年代記]]』では「ヴァリャーグからグレキへの道」([[ヴァリャーグからギリシへの道]])と呼ばれた。この道は[[東欧]]の地の文明形成に著しい影響を与えたと推定されている。ポロチャーネ族の居住地は「ヴァリャーグからグレキへの道」上を、[[バルト海]]沿岸に至るまで、ダウガヴァ川の両岸に広がっていた。また、南は[[シヴィスワチ川|シヴィスラチ川]]の左岸まで到達していた。居住地は以下の部族と接していた。すなわち南東のスモレンスク・クリヴィチ族、北と東は[[クリヴィチ族|イズヴォルスク・クリヴィチ族]]と[[スロヴェネ族|イリメニ・スロヴェネ族]]、南は[[ドレゴヴィチ族]]、西は[[バルト人]]である。 
中世において[[ダウガヴァ川]]と[[ドニエプル川]]に沿って水上路が[[北欧]]と[[地中海]]とを繋いでいた。その道は、『[[原初年代記]]』では「ヴァリャーグからグレキへの道」([[ヴァリャーグからギリシへの道]])と呼ばれた。この道は[[東欧]]の地の文明形成に著しい影響を与えたと推定されている。ポロチャーネ族の居住地は「ヴァリャーグからグレキへの道」上を、[[バルト海]]沿岸に至るまで、ダウガヴァ川の両岸に広がっていた。また、南は[[シヴィスワチ川|シヴィスラチ川]]の左岸まで到達していた。居住地は以下の部族と接していた。すなわち南東のスモレンスク・クリヴィチ族、北と東は[[クリヴィチ族|イズヴォルスク・クリヴィチ族]]と[[スロヴェネ族|イリメニ・スロヴェネ族]]、南は[[ドレゴヴィチ族]]、西は[[バルト人]]である。 


『原初年代記』は、ポロチャーネという名は[[パラター川|ポロタ川]]に由来すること、またポロチャーネ族からクリヴィチ族が派生したことを記している<ref>國本哲男他 訳 『ロシア原初年代記』(22頁)</ref>。また、クリヴィチ族・ポロチャーネ族が移住した地域には街が生まれた。現在の[[ポラツク]]・[[ヴィーツェプスク]]・[[ルコームリ]] ・[[ザスラーウエ]]・[[ウスヴャートィ]]・[[コプィシ]]・[[ミンスク]]・[[オルシャ]]・[[ドルツク]]・[[ラホイスク]]などである。
『原初年代記』は、ポロチャーネという名は[[パラター川|ポロタ川]]に由来すること、またポロチャーネ族からクリヴィチ族が派生したことを記している<ref>國本哲男他 訳 『ロシア原初年代記』(22頁)</ref>。また、クリヴィチ族・ポロチャーネ族が移住した地域には街が生まれた。現在の[[ポラツク]]・[[ヴィーツェプスク]]・[[ルコームリ]] ・[[ザスラーウエ]]・[[ウスヴャートィ]]・[[コプィシ]]・[[ミンスク]]・[[オルシャ]]・[[ドルツク]]・[[ラホイスク]]などである。

2020年6月26日 (金) 23:13時点における最新版

ポロチャーネ族ベラルーシ語: Палачанеウクライナ語: Полочаниロシア語: Полочане)は東スラブ人の一派であり、クリヴィチ族の同族である。現在のヴィーツェプスク州ミンスク州を居住地とし、ポロチャーネ族の移住した土地はポロツク公国へ発展した。

中世においてダウガヴァ川ドニエプル川に沿って水上路が北欧地中海とを繋いでいた。その道は、『原初年代記』では「ヴァリャーグからグレキへの道」(ヴァリャーグからギリシアへの道)と呼ばれた。この道は東欧の地の文明形成に著しい影響を与えたと推定されている。ポロチャーネ族の居住地は「ヴァリャーグからグレキへの道」上を、バルト海沿岸に至るまで、ダウガヴァ川の両岸に広がっていた。また、南はシヴィスラチ川の左岸まで到達していた。居住地は以下の部族と接していた。すなわち南東のスモレンスク・クリヴィチ族、北と東はイズヴォルスク・クリヴィチ族イリメニ・スロヴェネ族、南はドレゴヴィチ族、西はバルト人である。 

『原初年代記』は、ポロチャーネという名はポロタ川に由来すること、またポロチャーネ族からクリヴィチ族が派生したことを記している[1]。また、クリヴィチ族・ポロチャーネ族が移住した地域には街が生まれた。現在のポラツクヴィーツェプスクルコームリザスラーウエウスヴャートィコプィシミンスクオルシャドルツクラホイスクなどである。

脚注

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  1. ^ 國本哲男他 訳 『ロシア原初年代記』(22頁)

出典

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  • Седов, В. В. Длинные курганы кривичей — Moscow, 1974.
  • Штыхаў, Г. В. Крывічы : па матэрыялах раскопак курганоў ў паўночнай Беларусі— Minsk. 1992.
  • Штыхов, Г. В. Формирование Полоцких Кривичей(p.209 — 218) — Vilnius, 2000.
  • 國本哲男他 訳『ロシア原初年代記』名古屋大学出版会、1987年。
  • 服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』東洋書店、2004年。