「橘俊綱」の版間の差分
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| 妻 = 正室:'''[[源隆国]]の娘''' |
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2020年6月26日 (金) 10:53時点における版
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 長元元年(1028年) |
死没 | 寛治8年7月14日(1094年8月27日) |
別名 | 伏見修理大夫 |
官位 | 正四位上、修理大夫 |
主君 | 後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流→橘氏 |
父母 |
父:藤原頼通、母:藤原祇子(藤原頼成の妹で養女) 養父:橘俊遠 |
兄弟 |
藤原通房、俊綱、覚円、藤原定綱、藤原忠綱、藤原寛子(後冷泉天皇皇后)、藤原師実 養兄弟:藤原嫄子(敦康親王長女)、 源俊房・仁覚(源師房長男・三男)、藤原信家(藤原教通長男) |
妻 | 正室:源隆国の娘 |
子 |
藤原家光、兼長、藤壺女御(鳥羽天皇女御)、源師忠正室 養子:源師頼(源俊房嫡男)、 源俊頼(源経信三男) |
橘 俊綱(たちばな の としつな)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の次男。官位は正四位上・修理大夫。讃岐守・橘俊遠の養子。
経歴
摂政・関白・太政大臣を務めた藤原頼通の次男として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王の嫉妬心のために[1]、讃岐守・橘俊遠の養子とされる。『今鏡』によると、俊綱の母・祇子は俊綱を懐妊したのちに橘俊遠の室となったが、懐妊がはっきりしない頃であったため、俊綱をそのまま俊遠の子としたともいう[2]。実際には、以降も祇子は頼通の子を儲けているため、隆姫への配慮のために、懐妊した祇子と俊遠を形式的に夫婦としたとも考えられる[3]。
摂関家の子弟にもかかわらず、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守と地方官を歴任し、位階は正四位上にとどまった。
寛治7年12月(1094年1月)に自ら造営を手がけた別邸・伏見山荘が焼亡すると[4]、約半年後の翌寛治8年(1094年)6月頃重病により出家し、7月14日に卒去。享年67。最終官位は正四位上修理大夫兼近江守[5]。
人物
造園に造詣が深く[6]、日本最古の庭園書である『作庭記』の著者の有力候補とされる。巨椋池を一望にする景勝地・指月の丘(現在の桃山丘陵の南麓)に造営された伏見山荘は、俊綱自ら造園を行い「風流勝他、水石幽奇也」[4]と賞賛された。『今鏡』において、弟・藤原師実が伏見山荘を突然訪ねるも俊綱が豪奢にもてなした話[2]や、俊綱が白河院に対して、院が造営した鳥羽殿より伏見山荘の方が優れていると問答をしたとの話[2]が語られている。
歌人としても活躍し、特に伏見山荘は「伏見にては、時の歌詠みども集へて、和歌の会絶ゆるよなかりけり。」(『今鏡』140段)とあり、伏見山荘で頻繁に歌会が開催されていたことが窺われる。『後拾遺和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に13首が入集[7]。
説話
『宇治拾遺物語』には、昔尾張国の俊綱(すんごう)と言う僧侶であった時、熱田神宮の大宮司に侮辱を受けたが、のちに関白の息子として生まれ変わり尾張守となって、今度は熱田神宮の大宮司にかつての雪辱をした、との説話がある[8]。
『十訓抄』等にも俊綱に関する説話がある。