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[[蘭方医学|蘭学医]]である生沢良安の三女として1864年(元治元年)に[[武蔵国]][[榛沢郡]][[深谷宿]](現在の[[埼玉県]][[深谷市]])に生まれた。13歳の時に女性の病気を治療する医師になることを志して、勉強のために上京した。しかし、当時の日本では女性の医師は政府に認められておらず、医学学校に入るのも困難だった。<ref name="rekiken" />。目標を女子師範学校への入学に変更し、松本万年の私塾である止敬塾にて漢文を学んだ。<ref name="saitama">{{Cite book|和書|author=史の会編|year=1986|title=昭和市の埼玉・激動の60年|publisher=|page=72}}</ref>
[[蘭方医学|蘭学医]]である生沢良安の三女として1864年(元治元年)に[[武蔵国]][[榛沢郡]][[深谷宿]](現在の[[埼玉県]][[深谷市]])に生まれた。13歳の時に女性の病気を治療する医師になることを志して、勉強のために上京した。しかし、当時の日本では女性の医師は政府に認められておらず、医学学校に入るのも困難だった。<ref name="rekiken" />。目標を女子師範学校への入学に変更し、松本万年の私塾である止敬塾にて漢文を学んだ。<ref name="saitama">{{Cite book|和書|author=史の会編|year=1986|title=昭和市の埼玉・激動の60年|publisher=|page=72}}</ref>


[[1882年]](明治15年)に東京府病院に見習いとして入る。東京神田にあった東亜医学校が開校され入学した。当時の講師は後に有名になる樫村清徳や[[森外]]、片山芳林などがいた。しかし、これらの講師たちが相次いで海外へ留学したためほどなく廃校になった。<ref>{{Cite book|和書|author=秋山寵三|year=1962|title=日本女医史|publisher=日本女医会本部|page=80}}</ref>
[[1882年]](明治15年)に東京府病院に見習いとして入る。東京神田にあった東亜医学校が開校され入学した。当時の講師は後に有名になる樫村清徳や[[森外]]、片山芳林などがいた。しかし、これらの講師たちが相次いで海外へ留学したためほどなく廃校になった。<ref>{{Cite book|和書|author=秋山寵三|year=1962|title=日本女医史|publisher=日本女医会本部|page=80}}</ref>


[[1883年]]には東京府と埼玉県に続けて医学試験請願書を出すが、いずれも却下された。[[1884年]]には済生学舎に入学。同じ時期に、東京慈恵病院医学校の付属病院で[[高木兼寛]]から臨床医学の指導を受けた。1884年に医学免許規則が改正され女性が受けられるようになるが、その年は過労で倒れており受験できなかった。1985年に前期試験、1986年に後期試験に合格し、1987年に内務省医籍に登録された。<ref name="rekiken">{{Cite book|和書|author=田中正太郎|year=1978|title=歴史研究 第210号|publisher=歴研|page=28-29}}</ref>
[[1883年]]には東京府と埼玉県に続けて医学試験請願書を出すが、いずれも却下された。[[1884年]]には済生学舎に入学。同じ時期に、東京慈恵病院医学校の付属病院で[[高木兼寛]]から臨床医学の指導を受けた。1884年に医学免許規則が改正され女性が受けられるようになるが、その年は過労で倒れており受験できなかった。1985年に前期試験、1986年に後期試験に合格し、1987年に内務省医籍に登録された。<ref name="rekiken">{{Cite book|和書|author=田中正太郎|year=1978|title=歴史研究 第210号|publisher=歴研|page=28-29}}</ref>

2020年6月18日 (木) 12:11時点における版

生沢 クノ
生誕 (1864-12-30) 1864年12月30日
榛沢郡深谷宿 [1]
死没 (1945-06-18) 1945年6月18日(80歳没)
著名な実績 日本で2番目の女性医師
医学関連経歴
職業 医師
分野 産婦人科

生沢 クノ(いくさわ くの、1864年元治元年)12月30日 - 1945年6月18日)は日本で2番目の女性医師。日本で初めての女性医師である荻野吟子に次いで、1887年に23歳で医師免許を取得してから68歳まで長く地域医療に尽くした。[2]

生涯

医師になるまで

蘭学医である生沢良安の三女として1864年(元治元年)に武蔵国榛沢郡深谷宿(現在の埼玉県深谷市)に生まれた。13歳の時に女性の病気を治療する医師になることを志して、勉強のために上京した。しかし、当時の日本では女性の医師は政府に認められておらず、医学学校に入るのも困難だった。[2]。目標を女子師範学校への入学に変更し、松本万年の私塾である止敬塾にて漢文を学んだ。[3]

1882年(明治15年)に東京府病院に見習いとして入る。東京神田にあった東亜医学校が開校され入学した。当時の講師は後に有名になる樫村清徳や森鷗外、片山芳林などがいた。しかし、これらの講師たちが相次いで海外へ留学したためほどなく廃校になった。[4]

1883年には東京府と埼玉県に続けて医学試験請願書を出すが、いずれも却下された。1884年には済生学舎に入学。同じ時期に、東京慈恵病院医学校の付属病院で高木兼寛から臨床医学の指導を受けた。1884年に医学免許規則が改正され女性が受けられるようになるが、その年は過労で倒れており受験できなかった。1985年に前期試験、1986年に後期試験に合格し、1987年に内務省医籍に登録された。[2]

医師になってから

埼玉県榛沢郡寄居町で開業していた父・良安を手伝う。1888年(明治21年)7月には独立、埼玉県入間市川越町に医院を開いた。1899年(明治32年)には、父の面倒をみるために同居しはじめ、埼玉県大里郡本畠村に医院を開いた。1905年(明治38年)に本畠村の医院を閉鎖、深谷町で医院を開く。1908年には父が死去。1921年(大正10年)には家主から明け渡しを要求され医院を閉鎖。栃木県足利市の岩根病院に雇用される。1931年(昭和6年)岩根病院の副院長を辞職し、医師としては引退でした。[2]

脚注

  1. ^ 生沢クノ(いくさわくの)”. 深谷市役所. 2020年2月1日閲覧。
  2. ^ a b c d 田中正太郎『歴史研究 第210号』歴研、1978年、28-29頁。 
  3. ^ 史の会編『昭和市の埼玉・激動の60年』1986年、72頁。 
  4. ^ 秋山寵三『日本女医史』日本女医会本部、1962年、80頁。 

参考文献

  • 「昭和市の埼玉・激動の60年」1986年 ISBN 9784878910319
  • 田中正太郎『歴史研究 第210号』歴研、1978年

関連項目

外部リンク