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[[大正]]3年([[1914年]])、[[森鷗外]]の支援を受け、純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰創刊する。同年[[富本憲吉]]と結婚。共同で陶芸を制作する他、富本一枝の名で文芸活動を行う。憲吉との間には1男2女を儲けるが、昭和21年([[1945年]])には別居した。 |
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戦後は書店を経営し、『[[暮しの手帖]]』に多くの童話を載せるなど、晩年まで執筆活動を続けた。童話は没後に『お母さんが読んで聞かせるお話』として[[暮しの手帖社]]から出版された。 |
戦後は書店を経営し、『[[暮しの手帖]]』に多くの童話を載せるなど、晩年まで執筆活動を続けた。童話は没後に『お母さんが読んで聞かせるお話』として[[暮しの手帖社]]から出版された。 |
2020年6月18日 (木) 12:05時点における版
富本 一枝(とみもと かずえ、1893年3月26日 - 1966年9月22日)は、日本の明治時代〜昭和時代の画家、随筆家、婦人運動家。富山県富山市出身[1]。旧姓は尾竹一枝。筆名、尾竹紅吉(おたけ べによし)。
日本画家尾竹越堂の長女として生まれる。夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。平塚らいてうに心酔し、『青鞜』創刊翌年の明治45年(1912年)に青鞜社に入社、紅吉をなのり、随筆や詩の執筆、また1周年記念号の表紙を担当する等、積極的に活動する。しかし、らいてうとの同性愛関係や、バーでの飲酒(「五色の酒事件」)、吉原遊廓の見学(「吉原登楼事件」)などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。
同年4月、第12回巽画会展に初出品した『陶器』が三等賞を受賞、1913年第13回巽画会展に出品した『枇杷の実』が一等褒状を受ける。
大正3年(1914年)、森鷗外の支援を受け、純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰創刊する。同年富本憲吉と結婚。共同で陶芸を制作する他、富本一枝の名で文芸活動を行う。憲吉との間には1男2女を儲けるが、昭和21年(1945年)には別居した。
戦後は書店を経営し、『暮しの手帖』に多くの童話を載せるなど、晩年まで執筆活動を続けた。童話は没後に『お母さんが読んで聞かせるお話』として暮しの手帖社から出版された。
作品
- 「太陽と壺」 『青鞜』表紙 第2巻第4号
- 「アダムとイブ」 『青鞜』表紙 第3巻第1号
脚注
- ^ 20世紀日本人名事典(コトバンク)