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漢詩は[[森槐南]]らに師事。落合東郭、[[野口寧斎]]、森川竹磎らと親しく交わり、陸軍軍医であった[[森鷗外]]とも漢詩を通じた交遊があった。 |
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2020年6月18日 (木) 12:04時点における版
横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3年12月20日) - 1929年(昭和4年)12月12日)は、日本の漢詩人、陸軍軍医。本名は徳郎。雅号は唐陽山人[1]。
経歴
信濃国諏訪郡神戸村(→四賀村→現・長野県諏訪市)に生まれる。第一高等中学校医学部(現・千葉大学医学部)を卒業後、陸軍軍医となる。日露戦争では第1師団衛生隊の医長として従軍、のち浜松衛戍病院長、善通寺衛戍病院長、第7師団軍医部長を歴任。また『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂にも従事。
漢詩は森槐南らに師事。落合東郭、野口寧斎、森川竹磎らと親しく交わり、陸軍軍医であった森鷗外とも漢詩を通じた交遊があった。
著書
- 『游燕今體』(1902年)
- 『論俳絶句』(1911年)
- 『四国霊場奉納経』(1914年)
- 『揖五山館集』(1916年)
- 『唐陽山人詩鈔』(1923年)
脚注
- ^ 山田弘倫著『軍医森鴎外』(文松堂書店、1943年)「横川唐陽叱らる」197頁。