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世事に疎く、経済的才能に乏しく、生涯つましい学究生活に徹したという。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎説を徹底的に否定した。 |
世事に疎く、経済的才能に乏しく、生涯つましい学究生活に徹したという。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎説を徹底的に否定した。 |
2020年6月18日 (木) 11:54時点における版
なかしま りいちろう 中島 利一郎 | |
---|---|
生誕 |
1884年1月2日 日本 福岡県 |
死没 |
1959年1月6日(75歳没) 日本 東京都 |
国籍 | 日本 |
職業 | 言語学者 |
中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - 1959年1月6日[1])は日本の東洋比較言語学者。国士舘大学教授。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎を痛罵したことで知られる。
人物
福岡県御笠郡水城村(現・太宰府市)に生まれる[1]。筆名は筑水(筑前水城村に由来する)。
中野正剛、緒方竹虎(朝日新聞主筆、副総理)、藤井甚太郎らと同窓で、鳥居龍蔵、森鷗外らとも終生交友が続いた。
世事に疎く、経済的才能に乏しく、生涯つましい学究生活に徹したという。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎説を徹底的に否定した。
経歴[1]
- 1904年(明治37年) 福岡県立中学修猷館卒業
- 1909年(明治42年) 早稲田大学英文科卒業。早稲田大学出版部外員として『通俗二十一史』の編纂を企画しその校訂に当たる。
- 1910年(明治43年) 黒田侯爵家記録編集室編集局に編纂主任として勤務
- 1923年(大正12年) 宮内省臨時編集局に勤務し『明治天皇紀』編纂執筆に従事
- 1933年(昭和8年) 『明治天皇紀』完成により宮内省退官後、帝室博物館嘱託となり博物館史編纂、列品解説等を担任。
- 1940年(昭和15年) 帝室博物館退職。財団法人日本学研究所に指導員として勤務。
- 1945年(昭和20年) 国士舘専門学校(現国士舘大学)教授
- 他、PL教団教学部顧問など歴任
- 1959年(昭和34年) 日本通運東京病院で直腸癌のため死去(読売新聞1月8日朝刊)。75歳没。
著書
- 『菅原道真言行録』(内外出版協会)1910年
- 『平野国臣伝及遺稿』(平野国臣顕彰會刊)
- 『卑語考』など
- 『東洋言語学の建設』
- 『紋章の研究』
- 『卑語の起源』
- 『武蔵野の地名』
- 『ふんどし考-性言葉のみなもと』
- 『日本地名学研究』
学術誌
- 『武蔵野』
- 『総合詩歌』
- 『短歌芸術』
脚注
参考文献
- 中島利一郎『日本地名学研究』日本地名学研究所、1959年