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'''佐藤 元萇'''(さとう げんちょう、[[文政]]元年([[1818年]]) - [[明治]]30年([[1897年]])[[8月7日]])は、日本の[[医師]]。[[江戸幕府]][[医学館#江戸医学館|医学館]]教授。[[森鷗外]]の[[漢詩]]、[[漢文]]の師である<ref name=a>[[小堀桂一郎]]『森鴎外』ミネルヴァ書房、55頁</ref><ref name=c>『森鴎外と千住』「第2章 周囲の人々と森家の暮らしから」</ref>。号は'''応渠'''<ref name=b>『足立史談 第48号』渡辺春園「佐藤元萇先生と森林太郎」</ref>。 |
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明治5年に佐藤と旧知の仲であった森静男一家が上京し、静男はその男子を佐藤に入門させる。当時13歳のこの少年が、のちの[[森鷗外]]であった<ref name=b></ref>。鴎外の漢学関係の師としては[[依田學海]]もおり、依田は鴎外の漢文、佐藤は漢詩の能力を高めた<ref name=a></ref>。 |
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2020年6月18日 (木) 11:52時点における版
佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年) - 明治30年(1897年)8月7日)は、日本の医師。江戸幕府医学館教授。森鷗外の漢詩、漢文の師である[1][2]。号は応渠[3]。
生涯
父は佐藤重俊である。陸奥国会津に生まれ、会津藩藩主松平容保の侍講を務めた高津淄川[* 1]に学んだ。江戸詰御医師として五人扶持を給され[4]、藩邸を拠点に多紀元堅(多紀茝庭)から医学を学ぶ[* 2]。佐藤は多紀塾の塾頭に進んだ[3]。黒船来航後に種痘を学び、郷里で施術を行っている。安政4年(1857年)に幕命によって医学館医書校正となり、講師を経て教授に進んだ。文久3年(1863年)には征夷大将軍徳川家茂に拝謁し、袋杖登城を許された[3][5]。藩命により幕末の京へも赴いている。維新後は千住で医業を営んだほか、私塾を開いて近在の子供たちを教育した。のち茨城県下妻町で病院長を務める。墓所は池上本門寺[3]。
森鴎外との関係
明治5年に佐藤と旧知の仲であった森静男一家が上京し、静男はその男子を佐藤に入門させる。当時13歳のこの少年が、のちの森鷗外であった[3]。鴎外の漢学関係の師としては依田學海もおり、依田は鴎外の漢文、佐藤は漢詩の能力を高めた[1]。
著作等
脚注
- 注釈
- ^ 高津は古賀精里の弟子で、日新館で年少藩士の教育にあたった。漢詩人として草場佩川と並び称された人物である。思案橋事件で刑死した高津仲三郎は三男。
- ^ 多紀塾登門録では天保14年(1843年)3月の入門。
- 出典
- ^ a b 小堀桂一郎『森鴎外』ミネルヴァ書房、55頁
- ^ a b c 『森鴎外と千住』「第2章 周囲の人々と森家の暮らしから」
- ^ a b c d e 『足立史談 第48号』渡辺春園「佐藤元萇先生と森林太郎」
- ^ 『慶應年間会津藩士人名録』(勉強堂書店)71頁
- ^ 『会津人物事典 文人編』
参考文献
- 足立史談会『足立史談 第48号』、2008年
- 小島一男編『会津人物事典 文人編』歴史春秋社
- 小島一男編『会津人物事典 武人編』歴史春秋社
- 多田文雄『森鴎外と千住』足立郷土資料刊行会(史談文庫6)、2007年。
- 『日本人名大辞典』講談社