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[[近江国]]出身で美濃部(本姓は[[菅原氏]])氏の出自と伝わる。天祐は道号、紹杲は諱、別号に夢伴子・実夢叟などがある<ref name="Oumi Jinbutushi">「近江人物志」 P346「紹杲」の項(滋賀県教育会編 文泉堂 1917年)</ref>。[[万江宗程]]に師事し、[[寛永]]2年6月18日([[1625年]]7月22日)大徳寺169世住職となった<ref name="Oumi Jinbutushi"/>。仏海祖燈禅師の号を[[後水尾天皇]]より賜った。のち[[大和国|大和]]宇多に長泉山徳源寺([[織田信雄]][[菩提寺]])を開山し、[[寛文]]6年9月21日([[1666年]]10月19日)に[[入寂]]した<ref name="Oumi Jinbutushi"/>。 |
[[近江国]]出身で美濃部(本姓は[[菅原氏]])氏の出自と伝わる。天祐は道号、紹杲は諱、別号に夢伴子・実夢叟などがある<ref name="Oumi Jinbutushi">「近江人物志」 P346「紹杲」の項(滋賀県教育会編 文泉堂 1917年)</ref>。[[万江宗程]]に師事し、[[寛永]]2年6月18日([[1625年]]7月22日)大徳寺169世住職となった<ref name="Oumi Jinbutushi"/>。仏海祖燈禅師の号を[[後水尾天皇]]より賜った。のち[[大和国|大和]]宇多に長泉山徳源寺([[織田信雄]][[菩提寺]])を開山し、[[寛文]]6年9月21日([[1666年]]10月19日)に[[入寂]]した<ref name="Oumi Jinbutushi"/>。 |
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大徳寺では梅厳院、大徳寺南庭を作庭したとされ[[禅林墨跡|墨跡]]としても名を残し、[[森 |
大徳寺では梅厳院、大徳寺南庭を作庭したとされ[[禅林墨跡|墨跡]]としても名を残し、[[森鷗外]]が[[細川藩]]で起きた悲劇を描いた小説『[[阿部一族]]』の中に登場する人物として知られている<ref>{{Cite web |author= (有)西村美術|url= http://www5.ocn.ne.jp/~kobijutu/products/library/buddhist.html| title= 西村美術人名辞典 - 墨跡 - 天祐紹杲|accessdate= 2013-07-22}}</ref>。また、大徳寺154世住持である[[沢庵宗彭]]と親しかったと伝えられる<ref>「古田紹欽著作集 第5巻近世の禅者」(古田紹欽著 講談社 1981年)</ref>。 |
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== 脚注 == |
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2020年6月18日 (木) 11:48時点における版
天祐紹杲(てんゆう しょうこう、天正14年(1586年) - 寛文6年9月21日(1666年10月19日))は、江戸初期の臨済宗の僧、大徳寺住持。
略歴
近江国出身で美濃部(本姓は菅原氏)氏の出自と伝わる。天祐は道号、紹杲は諱、別号に夢伴子・実夢叟などがある[1]。万江宗程に師事し、寛永2年6月18日(1625年7月22日)大徳寺169世住職となった[1]。仏海祖燈禅師の号を後水尾天皇より賜った。のち大和宇多に長泉山徳源寺(織田信雄菩提寺)を開山し、寛文6年9月21日(1666年10月19日)に入寂した[1]。
大徳寺では梅厳院、大徳寺南庭を作庭したとされ墨跡としても名を残し、森鷗外が細川藩で起きた悲劇を描いた小説『阿部一族』の中に登場する人物として知られている[2]。また、大徳寺154世住持である沢庵宗彭と親しかったと伝えられる[3]。