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[[市河寛斎]]の次男として生まれる<ref>『寛斎先生余稿・梅渓画譜』1815年</ref>。[[市河米庵]]は実兄。[[江戸]]の生まれ。
[[市河寛斎]]の次男として生まれる<ref>『寛斎先生余稿・梅渓画譜』1815年</ref>。[[市河米庵]]は実兄。[[江戸]]の生まれ。


画を[[谷文晁]]に学び、[[大村藩]][[御用絵師]]・[[鏑木梅渓]]の養嗣子となり自身も絵師として大村藩に仕える。[[文化 (元号)|文化]]年間には藩主[[大村純昌]]の命を受けて[[大村城]]下に赴任している<ref>[[森外]]『[[伊沢蘭軒]]』</ref>。[[山水画]]・[[花鳥画]]を得意<ref>[[白井華陽]]『画乗要略』1815年</ref>とした。子の[[鏑木梅亭|梅亭]](1804年 - 1830年)・[[鏑木雲洞|雲洞]](1815年- 1892年)も画家。子の[[鏑木渓庵|渓庵]](1819年 - 1870年)は[[明清楽]]の演奏家となっている。門弟に[[佐久間雲窓]]がいる。
画を[[谷文晁]]に学び、[[大村藩]][[御用絵師]]・[[鏑木梅渓]]の養嗣子となり自身も絵師として大村藩に仕える。[[文化 (元号)|文化]]年間には藩主[[大村純昌]]の命を受けて[[大村城]]下に赴任している<ref>[[森外]]『[[伊沢蘭軒]]』</ref>。[[山水画]]・[[花鳥画]]を得意<ref>[[白井華陽]]『画乗要略』1815年</ref>とした。子の[[鏑木梅亭|梅亭]](1804年 - 1830年)・[[鏑木雲洞|雲洞]](1815年- 1892年)も画家。子の[[鏑木渓庵|渓庵]](1819年 - 1870年)は[[明清楽]]の演奏家となっている。門弟に[[佐久間雲窓]]がいる。


芝三田長運寺([[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]4-1-9)に墓所がある。
芝三田長運寺([[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]4-1-9)に墓所がある。

2020年6月18日 (木) 11:39時点における版

鏑木 雲潭(かぶらぎ うんたん、天明2年(1782年) - 嘉永5年11月27日[1][2]1853年1月6日))は、江戸時代後期の南画家。名は祥胤、は三吉。雲潭・實齋・當左生(尚左生とも)とした。通称は祥蔵。

略歴

市河寛斎の次男として生まれる[3]市河米庵は実兄。江戸の生まれ。

画を谷文晁に学び、大村藩御用絵師鏑木梅渓の養嗣子となり自身も絵師として大村藩に仕える。文化年間には藩主大村純昌の命を受けて大村城下に赴任している[4]山水画花鳥画を得意[5]とした。子の梅亭(1804年 - 1830年)・雲洞(1815年- 1892年)も画家。子の渓庵(1819年 - 1870年)は明清楽の演奏家となっている。門弟に佐久間雲窓がいる。

芝三田長運寺(港区三田4-1-9)に墓所がある。

作品

  • 「菊図」文化12年(1815年)

脚註

  1. ^ 結城素明『東京美術家墓所考』
  2. ^ 漆山又三郎『近世人名辞典』では卒年を明治3年(1870年)としている。
  3. ^ 『寛斎先生余稿・梅渓画譜』1815年
  4. ^ 森鷗外伊沢蘭軒
  5. ^ 白井華陽『画乗要略』1815年

参考文献