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1866年(慶応2年)、[[儒学者|儒者]](医者)[[松岡操]]の三男として、[[姫路市|姫路]]元塩町に生れる。松岡家は[[播磨国]]の[[神東郡]][[田原村 (兵庫県)|田原村]]辻川(現在の[[兵庫県]][[神崎郡]][[福崎町]]辻川)の旧家で、父・操は[[姫路藩]]の儒者・角田心蔵の女婿・田島某の弟として一時期田島家に籍を入れ、田島賢次の名で私塾の[[仁寿山黌]]や[[好古堂]]で修学し、のちに医者となった<ref>柳田國男の回想「故郷七十年」より。『柳田國男 <small>ちくま日本文学全集</small>』 431頁、(新版 [[ちくま文庫]])。他に「のじぎく文庫」([[神戸新聞]]出版センター刊)版がある。</ref>。 |
1866年(慶応2年)、[[儒学者|儒者]](医者)[[松岡操]]の三男として、[[姫路市|姫路]]元塩町に生れる。松岡家は[[播磨国]]の[[神東郡]][[田原村 (兵庫県)|田原村]]辻川(現在の[[兵庫県]][[神崎郡]][[福崎町]]辻川)の旧家で、父・操は[[姫路藩]]の儒者・角田心蔵の女婿・田島某の弟として一時期田島家に籍を入れ、田島賢次の名で私塾の[[仁寿山黌]]や[[好古堂]]で修学し、のちに医者となった<ref>柳田國男の回想「故郷七十年」より。『柳田國男 <small>ちくま日本文学全集</small>』 431頁、(新版 [[ちくま文庫]])。他に「のじぎく文庫」([[神戸新聞]]出版センター刊)版がある。</ref>。 |
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1877年([[明治]]10年)、12歳で[[神東郡]]吉田村の医者・井上碩平の養子となり、この頃より[[国学]]研究・文学活動を志した。1880年(明治13年)、[[東京大学|東京帝国大学]]医学部予科に入学し、あわせて桂園派の[[和歌]]を学びはじめた。このころより[[森 |
1877年([[明治]]10年)、12歳で[[神東郡]]吉田村の医者・井上碩平の養子となり、この頃より[[国学]]研究・文学活動を志した。1880年(明治13年)、[[東京大学|東京帝国大学]]医学部予科に入学し、あわせて桂園派の[[和歌]]を学びはじめた。このころより[[森鷗外]]と終生の交友を結び、1889年(明治22年)には鴎外や[[落合直文]]らと共に[[同人]]組織の[[新声社]]を結成する。同年8月には[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]・[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]・[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]・[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]などの極めて西洋的な抒情詩を、厳選した和文や漢語の典雅を駆使して訳出した訳詩集『於母影』(おもかげ)を『[[国民之友]]』誌の明治22年8月2日第58号夏期綴じ込み付録として発表した。西欧ロマンの心情を的確かつ流暢な日本語で表したこの詩集は、若き日の[[北村透谷]]や[[島崎藤村]]をすこぶる感化したばかりか、[[新体詩]]の形成とその芸術的昇華にも大きな影響を与えることになった<ref group="注">この『於母影』は訳者名を伏せて新声社をローマ字表記にした略記である「S・S・S」とのみ署名されたため、発表当時は訳者が誰なのか話題になった。実際の訳は鴎外・落合・井上のほか、新声社の同人である[[市村さん次郎|市村瓚次郎]]と鴎外の妹でもある[[小金井喜美子]]が行っている。</ref>。 |
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1890年(明治23年)、大学卒業と同時に[[東京大学医学部附属病院|医科大学付属病院]]眼科助手となり、2年後に姫路病院眼科医長として帰郷する。そののち[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医学専門学校]]の眼科の教授となって1902年(明治35年)まで郷里にあったが、その年の冬に職を辞して再度上京し、井上眼科医院を[[丸の内]][[内幸町]]に開業した。1904年(明治37年)、論文<!--「〇〇〇〇〇」-->によって<!--〇〇大学より--><!-- ← 必須情報が欠落しています -->[[医学博士]]の[[学位]]を授けられる。 |
1890年(明治23年)、大学卒業と同時に[[東京大学医学部附属病院|医科大学付属病院]]眼科助手となり、2年後に姫路病院眼科医長として帰郷する。そののち[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医学専門学校]]の眼科の教授となって1902年(明治35年)まで郷里にあったが、その年の冬に職を辞して再度上京し、井上眼科医院を[[丸の内]][[内幸町]]に開業した。1904年(明治37年)、論文<!--「〇〇〇〇〇」-->によって<!--〇〇大学より--><!-- ← 必須情報が欠落しています -->[[医学博士]]の[[学位]]を授けられる。 |
2020年6月18日 (木) 11:07時点における版
いのうえ みちやす 井上通泰 | |
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晩年に貴族院議員に勅任された頃の井上通泰 | |
生誕 | 1867年1月26日 |
死没 | 1941年8月15日 |
国籍 | 日本 |
別名 | 松岡泰蔵 |
職業 | 医師、柔術家、歌人、国文学者 |
流派 | 天神真楊流柔術 |
親 | 松岡操、たけ |
井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2年旧暦12月21日) - 1941年(昭和16年)8月15日[1])は、主に明治時代に活躍した桂園派の歌人・国文学者、また眼科を専門とする医師でもあった。名は音読みで「つうたい」ともいう。幼名は松岡泰蔵。雅号に南天荘。
来歴
1866年(慶応2年)、儒者(医者)松岡操の三男として、姫路元塩町に生れる。松岡家は播磨国の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家で、父・操は姫路藩の儒者・角田心蔵の女婿・田島某の弟として一時期田島家に籍を入れ、田島賢次の名で私塾の仁寿山黌や好古堂で修学し、のちに医者となった[2]。
1877年(明治10年)、12歳で神東郡吉田村の医者・井上碩平の養子となり、この頃より国学研究・文学活動を志した。1880年(明治13年)、東京帝国大学医学部予科に入学し、あわせて桂園派の和歌を学びはじめた。このころより森鷗外と終生の交友を結び、1889年(明治22年)には鴎外や落合直文らと共に同人組織の新声社を結成する。同年8月にはバイロン・シェイクスピア・ゲーテ・ハイネなどの極めて西洋的な抒情詩を、厳選した和文や漢語の典雅を駆使して訳出した訳詩集『於母影』(おもかげ)を『国民之友』誌の明治22年8月2日第58号夏期綴じ込み付録として発表した。西欧ロマンの心情を的確かつ流暢な日本語で表したこの詩集は、若き日の北村透谷や島崎藤村をすこぶる感化したばかりか、新体詩の形成とその芸術的昇華にも大きな影響を与えることになった[注 1]。
1890年(明治23年)、大学卒業と同時に医科大学付属病院眼科助手となり、2年後に姫路病院眼科医長として帰郷する。そののち岡山医学専門学校の眼科の教授となって1902年(明治35年)まで郷里にあったが、その年の冬に職を辞して再度上京し、井上眼科医院を丸の内内幸町に開業した。1904年(明治37年)、論文によって医学博士の学位を授けられる。
上京後は鴎外との交友が復活し、鴎外邸の観潮楼歌会などに出席した。その縁で小出粲や大口鯛二などの宮中歌人と近くなり、1906年(明治39年)には歌会「常磐会」を結成する。同会はのちに山縣有朋をはじめとする大物も参加し、盛況を呈した。1907年(明治40年)御歌所寄人。1916年から1922年(大正5年から11年)までは宮内省と文部省の嘱託として『明治天皇御集』の編纂に携わった。1920年(大正9年)宮中顧問官。1926年(大正15年)に還暦を迎えるとこれを期に医業を畳み、以後は歌道と国文学研究に専心していった。1938年(昭和13年)、貴族院勅選議員に勅任される。議員在職のまま1941年(昭和16年)7月14日死去、満77歳。
上代国文学の分野においては、『風土記』について考察した『風土記新考』、同郷の江戸時代後期の国学者藤井高尚について綴った『藤井高尚伝』をはじめ、維新後初の試みとなった万葉集全歌の注釈『万葉集新考』などを遺している。
著作
- 『井上通泰上代関係著作集』全14巻、秀英書房(復刻)、1986年(昭和61年)
- 『井上通泰文集』 島津書房、1995年(平成7年)、ほか
栄典
家族・親族
- 養父:井上碩平 - 医師
- 実父:松岡操 - 儒医
- 実母:たけ
1992年(平成4年)秋に、姫路文学館で『松岡五兄弟 松岡鼎・井上通泰・柳田国男・松岡静雄・松岡映丘』展が催された。