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== 伝記 ==
== 伝記 ==
* [[森外]]による晩年の史伝『[[伊沢蘭軒 (史伝)|伊沢蘭軒]]』<ref>『鴎外全集』などに所収。新版は『鴎外歴史文学集』第6巻 - 第9巻、[[岩波書店]]。[[村上哲見]]等による注解を収録。</ref>
* [[森外]]による晩年の史伝『[[伊沢蘭軒 (史伝)|伊沢蘭軒]]』<ref>『鴎外全集』などに所収。新版は『鴎外歴史文学集』第6巻 - 第9巻、[[岩波書店]]。[[村上哲見]]等による注解を収録。</ref>


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年6月18日 (木) 11:02時点における版

藤浪剛一『医家先哲肖像集』より伊沢蘭軒

伊沢 蘭軒(いざわ らんけん、安永6年11月11日1777年12月10日) - 文政12年3月17日1829年4月20日))は、江戸時代末期の医師、儒者[1][2]。名は信恬蘭軒、通称は辞安、堂号は酌源堂

生涯

備後福山藩藩医の子として江戸本郷に生まれた。儒学医学本草学を学んで福山藩に仕えた。著名な漢詩人菅茶山頼山陽狂歌で知られる幕臣大田南畝、書家の亀田鵬斎考証学者の狩谷棭斎など多くの文人と親しかった。

藩主(阿部家)の信任が厚く、晩年に病で足が不自由になった後も特例として輦で城内に出仕することを許されたという。

多くの子弟を育てたが、榛軒・柏軒[3]の二子のほか、蘭門五哲(清川玄道森立之岡西玄亭山田椿庭渋江抽斎)と呼ばれる五人が著名である[4]

文政12年(1829年)没し、麻布長谷寺に葬る。

伝記

脚注

  1. ^ 伊沢蘭軒 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  2. ^ 伊沢蘭軒 デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  3. ^ 伊澤磐安。福山藩典医を辞し後に幕府に仕える。黒田藩口中典医を勤める本家伊澤道盛に医を教え、後に一子伊澤信平を道盛の養子とした。
  4. ^ 岡西玄亭以外は幕府お目見得医師に列している。
  5. ^ 『鴎外全集』などに所収。新版は『鴎外歴史文学集』第6巻 - 第9巻、岩波書店村上哲見等による注解を収録。