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「狩谷棭斎」の版間の差分

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青年期は古代日本文化の考証につとめ、やがて[[漢籍]]善本の蒐集と校閲にすすみ、[[書誌学]]方面に非凡な見識を示す。考古遺品の収蔵と、[[金石文]]・古銭の研究を行う。「[[説文]]」について、もっとも親交のあった[[松崎慊堂]]と[[山梨稲川]]らと共同で討究した。「度量衡」については、[[1790年]]以来、西遊(近畿方面への旅行)を10回近く行い、[[1832年]]には[[正倉院]]御物の諸尺拝観を実施、実物主義に徹した。「和名」についても松崎慊堂と研究会を重ね、比較考証に精細を極め、町人の学者として[[北静盧]](屋根屋三右衛門)・[[市野迷庵]](市野屋三右衛門)とあわせて「三三右衛門」と称される<ref>{{Cite book|和書|author=森銑三|year=1996|title=偉人暦・上|publisher=中公文庫|pages=121p}}</ref>。晩年は浅草の住居を「実事求是書屋」と称した。墓は江戸[[下谷]]の天竜寺にあったが、[[巣鴨]]の法福寺に遷されている<ref>2012年([[平成]]24年)に宝福寺住職より早稲田大学會津八一記念博物館へ、狩谷棭斎墓碑「棭斎狩谷先生墓碣銘并序」が寄贈された。[https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/171108.html] </ref> 。
青年期は古代日本文化の考証につとめ、やがて[[漢籍]]善本の蒐集と校閲にすすみ、[[書誌学]]方面に非凡な見識を示す。考古遺品の収蔵と、[[金石文]]・古銭の研究を行う。「[[説文]]」について、もっとも親交のあった[[松崎慊堂]]と[[山梨稲川]]らと共同で討究した。「度量衡」については、[[1790年]]以来、西遊(近畿方面への旅行)を10回近く行い、[[1832年]]には[[正倉院]]御物の諸尺拝観を実施、実物主義に徹した。「和名」についても松崎慊堂と研究会を重ね、比較考証に精細を極め、町人の学者として[[北静盧]](屋根屋三右衛門)・[[市野迷庵]](市野屋三右衛門)とあわせて「三三右衛門」と称される<ref>{{Cite book|和書|author=森銑三|year=1996|title=偉人暦・上|publisher=中公文庫|pages=121p}}</ref>。晩年は浅草の住居を「実事求是書屋」と称した。墓は江戸[[下谷]]の天竜寺にあったが、[[巣鴨]]の法福寺に遷されている<ref>2012年([[平成]]24年)に宝福寺住職より早稲田大学會津八一記念博物館へ、狩谷棭斎墓碑「棭斎狩谷先生墓碣銘并序」が寄贈された。[https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/171108.html] </ref> 。
晩年の[[森外]]が、史伝(『[[渋江抽斎|澀江抽齋]]』、『[[伊沢蘭軒|伊澤蘭軒]]』、『[[北条霞亭]]』の続編)の著述を意図し、資料を集めたが公務と病で果たせなかった。
晩年の[[森外]]が、史伝(『[[渋江抽斎|澀江抽齋]]』、『[[伊沢蘭軒|伊澤蘭軒]]』、『[[北条霞亭]]』の続編)の著述を意図し、資料を集めたが公務と病で果たせなかった。


== 著作 ==
== 著作 ==

2020年6月18日 (木) 10:53時点における版

肖像画

狩谷 棭斎(かりや えきさい、安永4年12月1日1775年12月23日) - 天保6年閏7月4日1835年8月27日)は江戸時代後期の考証学者(今日の書誌学文献学)である。名は望之、字は卿雲、通称は津軽屋三右衛門(11代目)、別号を求古楼。戒名は常関院実事求是居士。

事績

江戸の下谷池之端仲町に生まれる[1]。父は書籍商・高橋高敏[1]。25歳で従祖弟・狩谷保古の養子となる。津軽藩御用達という富裕な町人身分にして、幼少時から学問を好み、1794年ころから屋代弘賢に師事し和漢の学を授けられた。

青年期は古代日本文化の考証につとめ、やがて漢籍善本の蒐集と校閲にすすみ、書誌学方面に非凡な見識を示す。考古遺品の収蔵と、金石文・古銭の研究を行う。「説文」について、もっとも親交のあった松崎慊堂山梨稲川らと共同で討究した。「度量衡」については、1790年以来、西遊(近畿方面への旅行)を10回近く行い、1832年には正倉院御物の諸尺拝観を実施、実物主義に徹した。「和名」についても松崎慊堂と研究会を重ね、比較考証に精細を極め、町人の学者として北静盧(屋根屋三右衛門)・市野迷庵(市野屋三右衛門)とあわせて「三三右衛門」と称される[2]。晩年は浅草の住居を「実事求是書屋」と称した。墓は江戸下谷の天竜寺にあったが、巣鴨の法福寺に遷されている[3]

晩年の森鷗外が、史伝(『澀江抽齋』、『伊澤蘭軒』、『北条霞亭』の続編)の著述を意図し、資料を集めたが公務と病で果たせなかった。

著作

  • 『本朝度量権衡攷』 
  • 『倭名類聚抄箋注』
  • 『日本霊異記攷証』
  • 『扶桑略記校證』
  • 『古京遺文』
  • 『上宮聖徳法皇帝説証註』
  • 『京游筆記』
  • 『日本現在書目證注稿』

刊行文献

覆刻(6冊刊)、現代思潮社、1978年、オンデマンド版・現代思潮新社、2008年

脚注

  1. ^ a b 狩谷棭斎 コトバンク 2018年7月15日閲覧。
  2. ^ 森銑三『偉人暦・上』中公文庫、1996年、121p頁。 
  3. ^ 2012年(平成24年)に宝福寺住職より早稲田大学會津八一記念博物館へ、狩谷棭斎墓碑「棭斎狩谷先生墓碣銘并序」が寄贈された。[1]