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父の倉松も国石の画号をもつ絵師だった<ref name=nakayama/>。越堂と近所付き合いがあった彫刻家の[[朝倉文夫]]の作品に、倉松をモデルにした「尾竹翁」(1913年)がある<ref name=nakayama/>。弟の染吉([[尾竹竹坡]])、亀吉([[尾竹国観]])も著名な画家で、明治末の日本画の世界では、尾竹三兄弟と呼ばれて一時代を築いた<ref name=nakayama>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81002899.pdf 富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)]中山修一,神戸大学、表現文化研究,8(2):159-200、2009-03-24</ref>。 |
父の倉松も国石の画号をもつ絵師だった<ref name=nakayama/>。越堂と近所付き合いがあった彫刻家の[[朝倉文夫]]の作品に、倉松をモデルにした「尾竹翁」(1913年)がある<ref name=nakayama/>。弟の染吉([[尾竹竹坡]])、亀吉([[尾竹国観]])も著名な画家で、明治末の日本画の世界では、尾竹三兄弟と呼ばれて一時代を築いた<ref name=nakayama>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81002899.pdf 富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)]中山修一,神戸大学、表現文化研究,8(2):159-200、2009-03-24</ref>。 |
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妻・うた([[富山藩]]士の娘)との間に9人の子を儲けたが、4人は夭折し、1人は実弟・亀吉(国観)の養女となり、残り4人の娘を育てた<ref name=nakayama/>。長女の[[尾竹一枝|一枝]]は『[[青鞜]]』同人の尾竹紅吉(筆名)として知られ、[[女子美術学校]]出の画家でもあり、陶芸家の[[富本憲吉]]の妻となった<ref name=nakayama/>。次女・福美は[[佐藤春夫]]に見初められたが交際を越堂に反対され、洋画家の[[安宅安五郎]]に嫁いだ<ref name=nakayama/>。佐藤は福美のことを詠った詩「泉と少女」を『[[三田文学]]』に発表している<ref name=nakayama/>。三女・三井は日本画家の野口謙次郎に嫁ぎ、末娘の貞子は[[長野]]出身の日本画家・尾竹正躬(まさみ、旧姓・武田)を婿養子として迎えた<ref name=nakayama/><ref>[http://www8.shinmai.co.jp/odekake/article.php?id=ODEK20171025008999 芸術でまちづくり、さらに 大町の作家と作品に光を]信濃毎日新聞、2017/10/25</ref>。一枝の息子で映画監督の[[富本壮吉]]は孫である。福美の娘の美穂は[[森 |
妻・うた([[富山藩]]士の娘)との間に9人の子を儲けたが、4人は夭折し、1人は実弟・亀吉(国観)の養女となり、残り4人の娘を育てた<ref name=nakayama/>。長女の[[尾竹一枝|一枝]]は『[[青鞜]]』同人の尾竹紅吉(筆名)として知られ、[[女子美術学校]]出の画家でもあり、陶芸家の[[富本憲吉]]の妻となった<ref name=nakayama/>。次女・福美は[[佐藤春夫]]に見初められたが交際を越堂に反対され、洋画家の[[安宅安五郎]]に嫁いだ<ref name=nakayama/>。佐藤は福美のことを詠った詩「泉と少女」を『[[三田文学]]』に発表している<ref name=nakayama/>。三女・三井は日本画家の野口謙次郎に嫁ぎ、末娘の貞子は[[長野]]出身の日本画家・尾竹正躬(まさみ、旧姓・武田)を婿養子として迎えた<ref name=nakayama/><ref>[http://www8.shinmai.co.jp/odekake/article.php?id=ODEK20171025008999 芸術でまちづくり、さらに 大町の作家と作品に光を]信濃毎日新聞、2017/10/25</ref>。一枝の息子で映画監督の[[富本壮吉]]は孫である。福美の娘の美穂は[[森鷗外]]の三男[[森類]]の妻となる。 |
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2020年6月18日 (木) 10:50時点における版
尾竹 越堂(OTAKE Etsudô、おたけ えつどう(1868年2月21日(慶応4年1月28日) - 1931年(昭和6年)12月3日[要検証 ])は、明治から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家。なお「尾竹」の読みを「おだけ」と記しているものが多いが、正しくは「おたけ」である[要出典]。
経歴
画号を国一(富山時代)、国弌、観月(大阪時代)とも称す。紺屋を営む尾竹倉松の長男として慶応4年1月28日(1868年2月21日)、越後国白根町(現在の新潟県新潟市)に生まれる。本名熊太郎。幼少のとき東京に出て四代目歌川国政に浮世絵を学んだと伝わる。明治18年(1885年)ごろから国雪と号して『新潟新聞』に挿絵を描き[1]、明治22年(1889年)に富山に移ると、売薬版画、新聞挿絵、絵馬、押絵の下絵などを描いた。明治23年(1890年)に富山越前町に住み、後に総曲輪町、山王町に移った。売薬版画の役者絵、歴史絵を多数描いたほか、明治23年9月23日より富山日報における小説挿絵を担当、人物画を得意として明治32年(1899年)まで描いていた。
明治32年に富山を離れ、大阪を経て後に再び東京府下谷区下根岸へ移り、土佐派の小堀鞆音に師事する。発明好きでもあり、大阪時代には自ら粉歯磨を作って「大和桜」の名で販売もしていた[2]。明治40年(1907年)、大坂において伊藤博文の命名により越堂と号する。引き札などの下絵制作に携わる。大阪美術会委員、大阪図案意匠絵画会図案部審査員などをつとめる。明治27年(1894年)富山共進会で銅賞、明治33年(1900年)大阪画会で銀賞を受賞。また日本美術院の新画風を学び、巽画会にも会員として加わった。明治44年(1911年)、第5回文展に「韓信」が入選。大正2年(1913年)1月より本格的に東京に居を移すと、兄弟3名で八華会を結成。根岸に住み、実弟竹坡、国観らとともに尾竹三兄弟として活躍した。文展でも大正3年(1914年)第8回展に「さつき頃」(二曲一双)、大正4年(1915年)第9回展に「湖」(六曲一双)、大正5年(1916年)第10回展に「漁樵問答」(六曲一双)と連年大作を発表し入選を重ねた。
昭和6年(1931年)12月3日歿(63歳)。弟子に金森観陽、水上如観がいる。
親族
父の倉松も国石の画号をもつ絵師だった[2]。越堂と近所付き合いがあった彫刻家の朝倉文夫の作品に、倉松をモデルにした「尾竹翁」(1913年)がある[2]。弟の染吉(尾竹竹坡)、亀吉(尾竹国観)も著名な画家で、明治末の日本画の世界では、尾竹三兄弟と呼ばれて一時代を築いた[2]。
妻・うた(富山藩士の娘)との間に9人の子を儲けたが、4人は夭折し、1人は実弟・亀吉(国観)の養女となり、残り4人の娘を育てた[2]。長女の一枝は『青鞜』同人の尾竹紅吉(筆名)として知られ、女子美術学校出の画家でもあり、陶芸家の富本憲吉の妻となった[2]。次女・福美は佐藤春夫に見初められたが交際を越堂に反対され、洋画家の安宅安五郎に嫁いだ[2]。佐藤は福美のことを詠った詩「泉と少女」を『三田文学』に発表している[2]。三女・三井は日本画家の野口謙次郎に嫁ぎ、末娘の貞子は長野出身の日本画家・尾竹正躬(まさみ、旧姓・武田)を婿養子として迎えた[2][3]。一枝の息子で映画監督の富本壮吉は孫である。福美の娘の美穂は森鷗外の三男森類の妻となる。
評価
美術誌『Bien(美庵)』Vol.43(2007年2月25日号、藝術出版社)の巻頭特集「きみは、尾竹三兄弟を知っているか?」にて、尾竹三兄弟の長兄として紹介された。これを受けて、国際浮世絵学会の機関誌「浮世絵芸術」、三兄弟の地元の『新潟日報』や『北日本新聞』でも『Bien(美庵)』の特集を評価し、尾竹兄弟の画業を再評価するのきっかけとなった。
作品
売薬版画
- 「市川団十郎の伴左ヱ門と中村福助の名古屋山三」 大判 明治中期 高見清平版 富山市売薬資料館所蔵
- 「役者見立壇浦兜軍記 阿古屋琴セメの段」 大判2枚続 明治24年 小泉重兵衛版 富山市売薬資料館所蔵 ※落款の下に歌川派を示す年玉の印あり
- 「勧進帳」 大判 明治中期 小西美精堂版 富山市売薬資料館所蔵
- 「大閤出世鏡 三州やはき橋之段」 大短冊版 明治24年 小泉重兵衛版 富山市売薬資料館所蔵
- 「旅順口攻撃浅川大尉奮戦図」 大判 明治28年 中川吉右衛門版 富山市売薬資料館所蔵
- 「福神宝の入船」 細判 明治中期 高見清平版 富山市売薬資料館所蔵
- 「忠臣蔵七段目」 大判
木版口絵
- 「男女礼式」口絵 山下胤次郎作 駸々堂版 明治32年
- 「大暗殺」口絵 稲岡奴之助作 駸々堂版 明治33年
- 「髪結松」口絵 須藤南翠作 駸々堂版 明治33年
- 「心中二巴」口絵 広津柳浪作 駸々堂版 明治33年
- 「新聞売子」上下 口絵 菊池幽芳作 駸々堂版 明治33年
- 「白百合」口絵 菊池幽芳作 駸々堂版 明治34年
- 「みをつくし」口絵 菊池幽芳作 駸々堂版 明治34年
- 「平家の落武者」口絵 稲岡奴之助作 駸々堂版 明治34年
- 「梁山泊」口絵 稲岡奴之助作 駸々堂版 明治34年
- 「洗ひ髪」口絵 渡辺霞亭作 正英堂版 明治34年
- 「横綱力士小野川喜三郎」口絵 玉秀斎作 偉業館版 明治35年
肉筆画
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 出品展覧会 | 落款・印章 | 備考 |
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韓信忍辱(にんにく)図 | 絹本着色 | 象牙軸 | 桃投伸二コレクション | |||||
漁樵問答 | 絹本着色 | 六曲一双 | 個人 | 1916年(大正5年) | 第10回文展 | |||
桃太郎 | 絹本着色 | 新潟県立近代美術館 | 1922年(大正11年) | |||||
花鳥図 | 紙本墨画淡彩 | 六曲一隻押絵貼 | 133.4x40.5(各) | 泉屋博古館 | 明治後期~大正時代[4] | |||
明治天皇画像 | 1幅 | 132.5x44.2 | 大阪城天守閣 | 上部に佐藤守誠筆で、明治天皇自作の和歌「さしのぼる朝日の如くさわやかに またまほしきは心なりけり」[5] | ||||
寒山拾得図 | 絹本着色 | 双幅 | 個人 | |||||
普賢菩薩図 | 絹本着色 | 個人 |
脚注
- ^ 『原色浮世絵大百科事典』第2巻に、明治18年6月17日の「絵入り新潟新聞」に挿絵。とある。
- ^ a b c d e f g h i 富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)中山修一,神戸大学、表現文化研究,8(2):159-200、2009-03-24
- ^ 芸術でまちづくり、さらに 大町の作家と作品に光を信濃毎日新聞、2017/10/25
- ^ 泉屋博古館編集 『泉屋博古 近代日本画』 公益財団法人 泉屋博古館、2017年2月25日、p.221(写真なし)。
- ^ 大阪城天守閣編集・発行 『特別展 幕末大坂城と徳川将軍』 2017年10月7日、p.190。
参考文献
- 尾竹親 『尾竹竹坡傳 その反骨と挫折』 東京出版センター、1968年
- 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年
- 尾竹俊亮 『闇に立つ日本画家 尾竹国観伝』 まろうど社、1995年
- 美術誌『Bien(美庵)』Vol.43(2007年春号、藝術出版社) 特集「きみは、尾竹三兄弟を知っているか?」 瀬木慎一/福富太郎/坂森幹浩/尾竹俊亮/渡邊澄子/窪田美鈴/桃投伸二/結城庵 公式サイト
- 山田奈々子 『木版口絵総覧』 文生書院、2005年