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[[新潟県]][[古志郡]]長岡町神田(現・[[長岡市]]神田二ノ町)にて、[[米]]の[[相場師]]として長岡で財を成した反町茂平の五男として生まれる<ref name=nabeshima>[http://www.nikkei.com/article/DGXMZO17925750R20C17A6000000/ 相場師列伝 反町茂平氏、新潟拠点にコメ相場で大成]鍋島高明、日本経済新聞、2017/7/1</ref>。反町家は代々米穀問屋を営んでいたが、茂平の代に[[先物取引]]を始めて成功し、長岡町内では一番大きい、1700坪を有する邸宅を構えていた<ref name=nabeshima/>。明治43年、事業拡大のため[[日本橋蛎殻町]]に出店した父親に伴い11歳で上京する。父の店は繁盛し、明治末年ころには東京米穀商品取引所の売上高ランキングで常に5位以内に入るほどだった<ref name=nabeshima/>。茂雄の長兄(茂平の長男)の反町茂作は大東京火災海上保険([[あいおいニッセイ同和損保]])の創設者であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%81%AB%E7%81%BD%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E9%99%BA%5B%E6%A0%AA%5D-849028 大東京火災海上保険(株) だいとうきょうかさいかいじょうほけん]百科事典マイペディア</ref>、叔父(茂平の弟)の反町新作は丸福証券([[岡三にいがた証券]])の創業者、もう一人の叔父・内川福七も新潟で株と米穀の仲買店「内川商店」を営んでいた<ref name=nabeshima/>。 |
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[[1914年]]、[[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]]の受験に失敗して[[日本大学第一中学校・高等学校|日本大学附属中学校]]に進む。中学時代は[[徳富蘇峰]]・[[徳富蘆花]]・[[山路愛山]]・[[箕作元八]]・[[三宅雪嶺]]・[[森鷗外]]などの著作を愛読した。[[1919年]]に日本大学附属中学校を卒業し、[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]](現・[[仙台市]])を受験するが不合格となり、1年間の浪人生活を経て[[1920年]]に同校文科入学する。同期には[[玉城肇]]や[[美濃部亮吉]]などがいた。在学中、古書蒐集に熱中する。 |
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[[1924年]]、第二高等学校文科卒業。同年、[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]政治学科入学。当時は新聞記者を志望し、[[シドニー・ウェッブ|ウェッブ]]夫妻や[[ハロルド・ラスキ]]、[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]を耽読したが、のち出版社志望に転じる。 |
[[1924年]]、第二高等学校文科卒業。同年、[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]政治学科入学。当時は新聞記者を志望し、[[シドニー・ウェッブ|ウェッブ]]夫妻や[[ハロルド・ラスキ]]、[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]を耽読したが、のち出版社志望に転じる。 |
2020年6月18日 (木) 10:38時点における版
反町 茂雄(そりまち しげお、1901年(明治34年)8月28日 - 1991年(平成3年)9月4日)は、昭和期の日本の古書店主、古書鑑定家。
生涯
新潟県古志郡長岡町神田(現・長岡市神田二ノ町)にて、米の相場師として長岡で財を成した反町茂平の五男として生まれる[1]。反町家は代々米穀問屋を営んでいたが、茂平の代に先物取引を始めて成功し、長岡町内では一番大きい、1700坪を有する邸宅を構えていた[1]。明治43年、事業拡大のため日本橋蛎殻町に出店した父親に伴い11歳で上京する。父の店は繁盛し、明治末年ころには東京米穀商品取引所の売上高ランキングで常に5位以内に入るほどだった[1]。茂雄の長兄(茂平の長男)の反町茂作は大東京火災海上保険(あいおいニッセイ同和損保)の創設者であり[2]、叔父(茂平の弟)の反町新作は丸福証券(岡三にいがた証券)の創業者、もう一人の叔父・内川福七も新潟で株と米穀の仲買店「内川商店」を営んでいた[1]。
1914年、東京府立第一中学校の受験に失敗して日本大学附属中学校に進む。中学時代は徳富蘇峰・徳富蘆花・山路愛山・箕作元八・三宅雪嶺・森鷗外などの著作を愛読した。1919年に日本大学附属中学校を卒業し、第二高等学校(現・仙台市)を受験するが不合格となり、1年間の浪人生活を経て1920年に同校文科入学する。同期には玉城肇や美濃部亮吉などがいた。在学中、古書蒐集に熱中する。
1924年、第二高等学校文科卒業。同年、東京帝国大学法学部政治学科入学。当時は新聞記者を志望し、ウェッブ夫妻やハロルド・ラスキ、クロポトキンを耽読したが、のち出版社志望に転じる。
1927年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。岩波書店の先例に倣って古書を勉強するため、月給20円で神田神保町の古書店「一誠堂」の住込み店員となるが、豊富な読書歴や外国語の素養に物を言わせて洋書の発掘に実力を発揮し、早くから同店の事実上の支配人となる。当時は東大卒の古本屋の小僧として話題になった。
1932年9月、160円の月給を蹴って退店し、古書肆「弘文荘」を開業する。目録を作成してもっぱら通信販売で古書籍を販売した。国宝・重要文化財級あるいはそれに準ずる古典籍を取り扱い、その目録は国内のみならず海外からも高く評価される。
太平洋戦争末期の1945年3月から6か月間、東京都から委嘱を受けて戦時特別買上事業を行い、中田邦造(東京都立日比谷図書館長)とともに、多くの貴重な書籍を疎開させ戦火から守った。8月6日の広島への原爆投下や8月9日のソ連対日参戦を知るに及んで敗戦を予感し、東京都豊島区と中野区と藤沢市に不動産を購入。このうち2軒は、のちに古書の仕入資金となった。
8月15日の終戦後、壊滅寸前だった古書業界の状況を物ともせずに翌8月16日から営業を再開する。1947年、森銑三を弘文荘に入れ、森が1985年に亡くなるまで40年間にわたり助け合う。
1976年には故郷の長岡市に図書資料143件、1552点を寄贈する。これらの書籍は反町茂雄文庫の名で長岡市立中央図書館に保管されている。
1980年に『日本の古典籍 その面白さ、その尊さ』を出版し、国立国会図書館に「古典籍課」が置かれたこともあり、「古典籍」という言葉を一般にも広めた[3](古典籍という言葉自体は少なくとも明治時代から使用されている[4])。
役務履歴
- 古書組合評議員
- 東京古書籍商業組合連合会副理事長
- 全国古書籍商業組合連合会専務理事
- 東京古典会長
- 明治古典会長
受賞歴
- 新潟日報文化賞 昭和57年 (1982年)
- 東京都文化賞 平成 3年 (1991年)
著書・編著
- 『紙魚の昔がたり』編、臨川書店 1978。復刻版(昭和9年刊)
- 『天理図書館の善本稀書 一古書肆の思い出』八木書店 1980、定本1981、オンデマンド版2015
- 『蒐書家・業界・業界人』八木書店、1984
- 『日本の古典籍 その面白さ、その尊さ』八木書店、1984
- 『紙魚の昔がたり 昭和篇』編、八木書店 1987、オンデマンド版2013
- 『紙魚の昔がたり 明治大正篇』編、八木書店 1990
- 『一古書肆の思い出』全5巻、平凡社 1986-92/平凡社ライブラリー 1998-99
- 1 修業時代、2 賈(かいひと)を待つ者、3 古典籍の奔流横溢
- 4 激流に棹さして、5 賑わいは夢の如く(遺作・未完)
- 『反町茂雄文集 上 古典籍の世界』、『下 古書業界を語る』文車の会編・八木書店 1993
- 『弘文荘待賈古書目 総索引』、鈴木徳三編、八木書店 1988、増補版1998
- 『弘文荘善本目録』、以下は各・弘文荘「待賈古書目」の題名(一部)
- 『弘文荘古活字版目録』
- 『弘文荘古版本図録』
- 『弘文荘古文書目録』
- 『弘文荘名家真蹟図録』、ほか多数
関連文献
- 柴田光彦編『反町茂雄収集 古書販売目録精選集』全10巻、ゆまに書房、2000年
- ―『反町茂雄収集 古書蒐集品展覧会 貴重蔵書目録集成』全8巻、ゆまに書房、2001年
- 小林秀雄 『反町茂雄-古典籍の発掘者』(長岡市、1998年)
- 『反町茂雄文庫目録 第一集・第二集』(長岡市立中央図書館、1994-95年)
- 青木正美 『古書肆・弘文荘訪問記-反町茂雄の晩年』 日本古書通信社、2005年
- 司馬遼太郎「三人の茂雄」[5] - 『街道をゆく36 本所深川 散歩・神田界隈』朝日新聞社、1992年
脚注
- ^ a b c d 相場師列伝 反町茂平氏、新潟拠点にコメ相場で大成鍋島高明、日本経済新聞、2017/7/1
- ^ 大東京火災海上保険(株) だいとうきょうかさいかいじょうほけん百科事典マイペディア
- ^ 早稲田の古典籍 ここだけの話(1) 松下眞也、ふみくら : 早稲田大学図書館報、2008-12-01
- ^ 古典籍文書考証ト成ヘキ書目ヲ徴ス『布告類編. 明治6年 巻17』(記録課, 1874)
- ^ 他は岩波茂雄・岡茂雄
外部リンク
- 特別買上文庫 反町茂雄旧蔵資料(東京都立図書館)
- 反町茂雄文庫(長岡市立図書館)
- 弘文荘についてジャパンナレッジ