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'''森 於菟'''(もり おと、[[1890年]]([[明治]]23年)[[9月13日]] - [[1967年]]([[昭和]]42年)[[12月21日]])は、[[日本]]の[[医学者]]。専門は[[解剖学]]。専門書の他に、父・[[森外]]の回想記と[[随筆]]を著した。
'''森 於菟'''(もり おと、[[1890年]]([[明治]]23年)[[9月13日]] - [[1967年]]([[昭和]]42年)[[12月21日]])は、[[日本]]の[[医学者]]。専門は[[解剖学]]。専門書の他に、父・[[森外]]の回想記と[[随筆]]を著した。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
1890年9月13日に[[東京府]]で、[[森外]]と最初の妻・登志子(海軍中将[[赤松則良]]の長女)との間に長男として生まれた。その直後に両親が離婚、生まれて間もない授乳期の於菟は、数え年の5歳まで本郷森川町(現・[[文京区]]本郷6丁目辺り)のタバコ屋、平野甚三方(歌人[[平野万里]]の実家)に預けられた。森家に引き取られると、支配的な祖母の峰によって厳しく育てられ、父鴎外と同じように熱心な教育を受けた。生き別れた実母が[[1900年]]に病死。[[1902年]]に父鴎外が再婚。新しい母ができたことを喜んだが、義母の[[森志げ|志げ]]は於菟に冷たかった。
1890年9月13日に[[東京府]]で、[[森外]]と最初の妻・登志子(海軍中将[[赤松則良]]の長女)との間に長男として生まれた。その直後に両親が離婚、生まれて間もない授乳期の於菟は、数え年の5歳まで本郷森川町(現・[[文京区]]本郷6丁目辺り)のタバコ屋、平野甚三方(歌人[[平野万里]]の実家)に預けられた。森家に引き取られると、支配的な祖母の峰によって厳しく育てられ、父鴎外と同じように熱心な教育を受けた。生き別れた実母が[[1900年]]に病死。[[1902年]]に父鴎外が再婚。新しい母ができたことを喜んだが、義母の[[森志げ|志げ]]は於菟に冷たかった。


父が[[日露戦争]]に出征していた[[1905年]]春、[[獨逸学協会学校]]中等部を同窓生より2歳若く卒業したが、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](旧制一高)の受験に失敗。翌[[1906年]]、医科志望者のためのドイツ語主体の学部である旧制一高の第三部に入学。[[1908年]]4月、祖母に連れられ、[[滋賀県]][[土山町|土山村]](現・[[甲賀市]]土山町)常明寺へ、客死した曾祖父、森白仙の墓参に行った帰りに[[静岡県]][[磐田市]]の亡母方の祖父母を訪ね、はじめて挨拶をした。その後、異父妹の美代子と仲良くなるが、美代子は十代で病死した。[[1916年]]に祖母が死亡。同年林美代と結婚したがほどなく別れ、[[1918年]]に原富貴と学生結婚。[[1922年]]3月14日、夫の[[山田珠樹]]が欧州留学中であった異母妹の[[森茉莉|茉莉]]に同行し、欧州へ留学。見送りに来ていた父とは最後の別れとなった。
父が[[日露戦争]]に出征していた[[1905年]]春、[[獨逸学協会学校]]中等部を同窓生より2歳若く卒業したが、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](旧制一高)の受験に失敗。翌[[1906年]]、医科志望者のためのドイツ語主体の学部である旧制一高の第三部に入学。[[1908年]]4月、祖母に連れられ、[[滋賀県]][[土山町|土山村]](現・[[甲賀市]]土山町)常明寺へ、客死した曾祖父、森白仙の墓参に行った帰りに[[静岡県]][[磐田市]]の亡母方の祖父母を訪ね、はじめて挨拶をした。その後、異父妹の美代子と仲良くなるが、美代子は十代で病死した。[[1916年]]に祖母が死亡。同年林美代と結婚したがほどなく別れ、[[1918年]]に原富貴と学生結婚。[[1922年]]3月14日、夫の[[山田珠樹]]が欧州留学中であった異母妹の[[森茉莉|茉莉]]に同行し、欧州へ留学。見送りに来ていた父とは最後の別れとなった。
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* 祖母:森峰子
* 祖母:森峰子
* 祖父:[[赤松則良]]([[軍人]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[中将]])
* 祖父:[[赤松則良]]([[軍人]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[中将]])
* 父:[[森外]]([[小説家]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍医]])
* 父:[[森外]]([[小説家]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍医]])
* 母:森登志子(赤松則良の長女)
* 母:森登志子(赤松則良の長女)
* 義母:[[森志げ]] - 12歳より同居
* 義母:[[森志げ]] - 12歳より同居

2020年6月18日 (木) 10:19時点における版

森 於菟(もり おと、1890年明治23年)9月13日 - 1967年昭和42年)12月21日)は、日本医学者。専門は解剖学。専門書の他に、父・森鷗外の回想記と随筆を著した。

来歴

1890年9月13日に東京府で、森鷗外と最初の妻・登志子(海軍中将赤松則良の長女)との間に長男として生まれた。その直後に両親が離婚、生まれて間もない授乳期の於菟は、数え年の5歳まで本郷森川町(現・文京区本郷6丁目辺り)のタバコ屋、平野甚三方(歌人平野万里の実家)に預けられた。森家に引き取られると、支配的な祖母の峰によって厳しく育てられ、父鴎外と同じように熱心な教育を受けた。生き別れた実母が1900年に病死。1902年に父鴎外が再婚。新しい母ができたことを喜んだが、義母の志げは於菟に冷たかった。

父が日露戦争に出征していた1905年春、獨逸学協会学校中等部を同窓生より2歳若く卒業したが、第一高等学校(旧制一高)の受験に失敗。翌1906年、医科志望者のためのドイツ語主体の学部である旧制一高の第三部に入学。1908年4月、祖母に連れられ、滋賀県土山村(現・甲賀市土山町)常明寺へ、客死した曾祖父、森白仙の墓参に行った帰りに静岡県磐田市の亡母方の祖父母を訪ね、はじめて挨拶をした。その後、異父妹の美代子と仲良くなるが、美代子は十代で病死した。1916年に祖母が死亡。同年林美代と結婚したがほどなく別れ、1918年に原富貴と学生結婚。1922年3月14日、夫の山田珠樹が欧州留学中であった異母妹の茉莉に同行し、欧州へ留学。見送りに来ていた父とは最後の別れとなった。

父の没後の1924年に帰国し、母校の東京帝国大学医学部助教授をへて、1945年の終戦まで台北帝国大学(現・台湾大学)医学部教授をつとめた。戦後は、1947年まで台湾大学医学院教授を務めて医学部長となり、帝国女子医学専門学校長東邦大学医学部教授・医学部長などを歴任した。

なお、兄弟4人の中で最初に父の回想記を書いており、その後3人の妹弟も続いた。特に「時時の父鴎外」『中央公論』1933年(後年『父親としての森鴎外』に収録)では、世間に知られていなかった事実、つまり父・鴎外にドイツ人女性の恋人がいたことを初めて公表した[1]。その中で、日露戦争中の鴎外が激戦地・南山を舞台につくった『扣鈕』(ボタン)の一節「こがね髪ゆらぎし少女」こそ恋人ではないかとし、中学生のとき父から片方のボタン(カフスボタンとされる)をもらっていたことにも触れた。

名の由来

寅年生まれであることから、鴎外が中国の古書『左伝』からを意味する「於菟」を取って付けた[2]。同じく、鴎外から、『史記』に書かれている虎の異名「山君(山の神の意)」を筆名としてもらっている[3]

家族・親族

鴎外がドイツ時代の恩師マックス・フォン・ペッテンコーファーから命名。医学博士。
鴎外が命名。女児が生まれていたら「百合(Julie)」になる予定だった。元東北大学教授。
以下は於菟が漢学者吉田増蔵と相談して命名。光学の第一人者にして東芝総合研究所首席技監など。
北海道大学教授。
早稲田大学教授。

著書

単著

  • 『小組織学』金原商店〈教科用簡明医学叢書 第6輯〉、1928年3月。NDLJP:1090155 
    • 『小組織学』(第3版)金原商店〈教科用簡明医学叢書 第6輯〉、1932年4月。NDLJP:1049030 
    • 『小組織学』(第4版)金原商店〈教科用簡明医学叢書 第6輯〉、1934年4月。NDLJP:1049041 
    • 『小組織学』(第5版)金原商店〈教科用簡明医学叢書 第6輯〉、1935年4月。NDLJP:1049048 
    • 『小組織学』(第6版)金原商店〈教科用簡明医学叢書 第6輯〉、1937年4月。NDLJP:1072735 
  • 『屍室断想』時潮社、1935年3月。 
  • 『木芙蓉』時潮社、1936年9月。 
  • 『解剖台に凭りて』丸井書店、1939年10月。NDLJP:1036750 
    • 『新編 解剖台に凭りて』森北書店、1942年11月。 
    • 『新編 解剖台に凭りて』冨士出版、1947年7月。 
  • 『解剖刀を執りて』養徳社、1946年6月。 
    • 新編 解剖刀を執りて筑摩書房〈筑摩叢書 333〉、1989年5月。ISBN 978-4480013330https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480013330/ 
  • 『森鴎外』養徳社、1946年7月。 
  • 『父親としての森鴎外』大雅書店〈大雅新書〉、1955年4月。 
  • 耄碌寸前みすず書房、2010年10月。ISBN 978-4622080831https://www.msz.co.jp/book/detail/08083.html 

共編著

共訳

改訂

  • 二村領次郎『近世解剖学 前編(本文)』森於兎改訂(14版)、金原商店、1930年9月。NDLJP:1049178 
  • 二村領次郎『近世解剖学 前編(附図)』森於兎改訂(14版)、金原商店、1930年9月。NDLJP:1049179 
  • 二村領次郎『近世解剖学 後編(本文)』森於兎改訂(14版)、金原商店、1930年9月。NDLJP:1049180 
  • 二村領次郎『近世解剖学 後編(附図)』森於兎改訂(14版)、金原商店、1930年9月。NDLJP:1049181 

その他

  • 東京の自邸は建築家・清家清の設計によるもので(1951年)、「森博士の家」として日本近代住宅史上有名。
  • 1933年には埼玉県大宮近郊の盆栽村に移り住み[4]、鴎外の印税で建てた洋風の豪邸に台湾赴任まで一家で住み[5]、小学生の息子たちとともに東京に通った[6]。建物は解体され、現存しない。跡地は大宮市が市立の文学館・「(仮称)大宮文学館」の建設用地として取得したが、合併に伴う事業整理により文学館の建設は2007年に中止され、さいたま市大宮盆栽美術館の付属施設・「さいたま国際盆栽アカデミー」の実習場として整備された。

脚注

  1. ^ 六草(2011)、46-50頁。
  2. ^ これに関しては南方熊楠の『十二支考』にも書いてあって、「楚人乳を㝅(こう)虎を於菟という」と書いている。
  3. ^ 『しあはせなハンス』グリム兄弟著、森於菟訳 (文芸春秋新社, 1948)
  4. ^ 「大宮の盆栽」Japanブランド化プロジェクト社団法人さいたま観光国際協会、平成24年3月
  5. ^ 『台湾の森於菟』森常治、ミヤオビパブリッシング宮帯出版社、2013年10月
  6. ^ 『明日を待つ彼』国民新聞政治部 編 (千倉書房, 1931)

参考文献

  • 『日本人名大事典』7巻、平凡社、執筆:酒井恒、1979年、778-779頁。
  • 六草いちか『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』講談社、2011年3月。ISBN 978-4-06-216758-1 
  • 『台湾の森於菟』森常治、ミヤオビパブリッシング宮帯出版社、2013年10月
  • 『鴎外と脚気: 曾祖父の足あとを訪ねて』森千里、NTT出版, 2013年

外部リンク

先代
額田晉
帝国女子医学専門学校長
第2代: 1946年 - 1949年
次代
廃止