「中国共産党中央委員会副主席」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Category:党中央の役職を除去; Category:中国共産党中央の役職を追加 (HotCat使用) |
|||
79行目: | 79行目: | ||
|- |
|- |
||
|align="center"|[[File:DengXiaoping.jpg|80px]] |
|align="center"|[[File:DengXiaoping.jpg|80px]] |
||
|align="center"|[[ |
|align="center"|[[鄧小平]] |
||
|1975年1月<ref>[http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64562/65367/4429436.html 中国共产党第十届中央委员会第二次全体会议公报]</ref><br />1977年7月21日<ref name="cpc197707">[http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64562/65368/4429440.html 中国共产党第十届中央委员会第三次全体会议公报 (一九七七年七月二十一日通过)]</ref>||1976年4月7日<ref>[https://zh.wikisource.org/wiki/中共中央关于撤销邓小平党内外一切职务的决议 中共中央关于撤销邓小平党内外一切职务的决议]</ref><br />1977年8月 |
|1975年1月<ref>[http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64562/65367/4429436.html 中国共产党第十届中央委员会第二次全体会议公报]</ref><br />1977年7月21日<ref name="cpc197707">[http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64562/65368/4429440.html 中国共产党第十届中央委员会第三次全体会议公报 (一九七七年七月二十一日通过)]</ref>||1976年4月7日<ref>[https://zh.wikisource.org/wiki/中共中央关于撤销邓小平党内外一切职务的决议 中共中央关于撤销邓小平党内外一切职务的决议]</ref><br />1977年8月 |
||
|第2回中央委員会全体会議で補充メンバーとなる。その後[[四五天安門事件]]の責任を負い一時免職させられたが、第3回中央委員会全体会議で復職した<ref name="cpc197707" />。 |
|第2回中央委員会全体会議で補充メンバーとなる。その後[[四五天安門事件]]の責任を負い一時免職させられたが、第3回中央委員会全体会議で復職した<ref name="cpc197707" />。 |
||
91行目: | 91行目: | ||
|- |
|- |
||
|align="center"|[[File:DengXiaoping.jpg|80px]] |
|align="center"|[[File:DengXiaoping.jpg|80px]] |
||
|align="center"|[[ |
|align="center"|[[鄧小平]] |
||
|1977年8月19日<ref name="cpc1977" />||1982年9月 |
|1977年8月19日<ref name="cpc1977" />||1982年9月 |
||
|- |
|- |
2020年6月17日 (水) 21:40時点における最新版
中国共産党中央委員会副主席(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおういいんかいふくしゅせき)は、かつて存在した中国共産党の役職である。中華人民共和国では、しばし中共中央副主席と省略して呼称した。
1945年の第7回中国共産党全国代表大会で中国共産党中央委員会主席制の導入が決定され、1956年の第8回全国代表大会で中央委員会主席の副職として設置が決定された。同大会では中国共産党規約を改正し、中央委員会において政治局常務委員の中から中央委員会主席1名と同副主席数名を任命することが定められた。1982年の第12回全国代表大会で、中央委員会副主席の役職は中央委員会主席と共に廃止された。
中央委員会副主席一覧
[編集]党中央委員会 会期 |
肖像 | 氏名 | 任期 | 会期中の 中央委員会主席 |
備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
就任年月 | 離任年月 | |||||
第 8 期 |
劉少奇 | 1956年9月28日[1] | 1966年8月 | 毛沢東 |
第11回中央委員会全体会議で解任決定。 | |
周恩来 | 1956年9月28日[1] | 1966年8月 | ||||
朱徳 | 1956年9月28日[1] | 1966年8月 | ||||
陳雲 | 1956年9月28日[1] | 1966年8月 | ||||
林彪 | 1958年5月25日[2] | 1969年4月 | 第5回中央委員会全体会議で副主席として補充される[2]。第11回中央委員会全体会議で唯一人の副主席となる[3]。 | |||
第 9 期 |
林彪 | 1969年4月28日[4] | 1971年9月 | 毛沢東 |
第9期では党内の唯一の副主席となる[4]。政治闘争の末にソ連に亡命を企てたが、搭乗する航空機が墜落し死亡した。その後党籍を剥奪された。 | |
第 10 期 |
華国鋒 | 1976年4月7日[5] | 1976年10月7日[6] | 毛沢東 ↓ 華国鋒 |
中央政治局会議で「第一副主席」として補充され[5]、四人組逮捕直後に同会議で主席に選出される[6]。 | |
周恩来 | 1973年8月30日[7] | 1976年1月 | 任期中に病没した。 | |||
王洪文 | 1973年8月30日[7] | 1976年10月 | 「四人組」のメンバー。その後職務を解任され、党籍を剥奪された。 | |||
康生 | 1973年8月30日[7] | 1975年12月 | 任期中に病死した。その後党籍を剥奪された。 | |||
葉剣英 | 1973年8月30日[7] | 1977年8月 | 1976年10月〜1977年7月の期間において党内唯一人の副主席であった。 | |||
李徳生 | 1973年8月30日[7] | 1975年1月 | 第2回中央委員会全体会議で辞職した。 | |||
鄧小平 | 1975年1月[8] 1977年7月21日[9] |
1976年4月7日[10] 1977年8月 |
第2回中央委員会全体会議で補充メンバーとなる。その後四五天安門事件の責任を負い一時免職させられたが、第3回中央委員会全体会議で復職した[9]。 | |||
第 11 期 |
葉剣英 | 1977年8月19日[11] | 1982年9月 | 華国鋒 ↓ 胡耀邦 |
||
鄧小平 | 1977年8月19日[11] | 1982年9月 | ||||
李先念 | 1977年8月19日[11] | 1982年9月 | ||||
汪東興 | 1977年8月19日[11] | 1980年2月 | 第5回中央委員会全体会議で辞職した。 | |||
陳雲 | 1978年12月22日[12] | 1982年9月 | 第3回中央委員会全体会議で補選された[12]。 | |||
趙紫陽 | 1981年6月29日[13] | 1982年9月 | 第6回中央委員会全体会議で補選された[13]。 | |||
華国鋒 | 1981年6月29日[13] | 1982年9月 | 第6回中央委員会全体会議で党中央委員会主席を辞職し、副主席に補選された[13]。 |
脚注
[編集]- ^ a b c d 中共八届一中全会选出新的中央机构
- ^ a b 中国共产党八届五中全会简介
- ^ 中国共产党八届十一中全会简介
- ^ a b 中国共产党第九届中央委员会第一次全体会议公报 (一九六九年四月二十八日)
- ^ a b 中共中央关于华国锋同志任中共中央第一副主席、国务院总理的决议
- ^ a b 1976年10月7日 中共中央政治局一致通过华国锋为中央委员会主席
- ^ a b c d e 中国共产党第十届中央委员会第一次全体会议公报 一九七三年八月三十日
- ^ 中国共产党第十届中央委员会第二次全体会议公报
- ^ a b 中国共产党第十届中央委员会第三次全体会议公报 (一九七七年七月二十一日通过)
- ^ 中共中央关于撤销邓小平党内外一切职务的决议
- ^ a b c d 中国共产党第十一届中央委员会第一次全体会议新闻公报(一九七七年八月十九日)
- ^ a b 中国共产党第十一届中央委员会第三次全体会议公报(一九七八年十二月二十二日通过)
- ^ a b c d 中国共产党第十一届中央委员会第六次全体会议公报(1981年6月29日通过)