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'''3つの世界論'''(みっつのせかいろん、{{lang-zh|三个世界理论([[簡体字]])}}、{{lang-en|Three Worlds Theory}})は、[[中国共産党]]の指導者[[毛沢東]]が[[1974年]]から展開した、3つの異なる政治経済的世界から国際関係が構成されている、とする見方<ref>{{cite web|url=http://www.fmprc.gov.cn/eng/ziliao/3602/3604/t18008.htm|title=Chairman Mao Zedong's Theory on the Division of the Three World and the Strategy of Forming an Alliance Against an opponent|publisher=[[中華人民共和国外交部]]|date=2000-11-17|accessdate=2011-04-09}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.revolutionarydemocracy.org/rdv10n1/mao.htm||title=On the Question of the Differentiation of the Three Worlds|publisher=Revolutionary Democracy|origdate=1974-02-22|accessdate=2011-04-09}}{{cite web|url=http://maoist.wikia.com/wiki/Three_Worlds_Theory|title=Three Worlds Theory|publisher=Maoist Wiki|accessdate=2011-04-09}} - [[1974年]][[2月22日]]の毛沢東と[[ザンビア|ザンビア共和国]]の[[ケネス・カウンダ|カウンダ]]大統領のやりとりの英訳。</ref>。この枠組みにおいて、「[[第一世界]]」とは超大国である当時の米ソ両国のことであり、「[[第二世界]]」は超大国のいずれかと同盟する諸国、「[[第三世界]]」は[[非同盟運動|非同盟諸国]]を指していた。 |
'''3つの世界論'''(みっつのせかいろん、{{lang-zh|三个世界理论([[簡体字]])}}、{{lang-en|Three Worlds Theory}})は、[[中国共産党]]の指導者[[毛沢東]]が[[1974年]]から展開した、3つの異なる政治経済的世界から国際関係が構成されている、とする見方<ref>{{cite web|url=http://www.fmprc.gov.cn/eng/ziliao/3602/3604/t18008.htm|title=Chairman Mao Zedong's Theory on the Division of the Three World and the Strategy of Forming an Alliance Against an opponent|publisher=[[中華人民共和国外交部]]|date=2000-11-17|accessdate=2011-04-09}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.revolutionarydemocracy.org/rdv10n1/mao.htm||title=On the Question of the Differentiation of the Three Worlds|publisher=Revolutionary Democracy|origdate=1974-02-22|accessdate=2011-04-09}}{{cite web|url=http://maoist.wikia.com/wiki/Three_Worlds_Theory|title=Three Worlds Theory|publisher=Maoist Wiki|accessdate=2011-04-09}} - [[1974年]][[2月22日]]の毛沢東と[[ザンビア|ザンビア共和国]]の[[ケネス・カウンダ|カウンダ]]大統領のやりとりの英訳。</ref>。この枠組みにおいて、「[[第一世界]]」とは超大国である当時の米ソ両国のことであり、「[[第二世界]]」は超大国のいずれかと同盟する諸国、「[[第三世界]]」は[[非同盟運動|非同盟諸国]]を指していた。 |
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毛沢東は、[[アメリカ合衆国]]と[[ソビエト連邦]]をともに第一世界に入れていた。[[1974年]]、当時[[国務院常務副総理]]だった[[ |
毛沢東は、[[アメリカ合衆国]]と[[ソビエト連邦]]をともに第一世界に入れていた。[[1974年]]、当時[[国務院常務副総理]]だった[[鄧小平]]は、[[国際連合]]における演説の中で3つの世界論を説明し、第一世界にあたる米ソ超大国を[[帝国主義]]的[[覇権]]を求めていると批判し、[[中華人民共和国]]が、[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて、[[アジア]]([[フィリピン]]の[[フェルディナンド・マルコス]]など)、[[ラテンアメリカ]]([[チリ]]の[[アウグスト・ピノチェト]]<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China (PDF). 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.</ref><ref>{{cite web|url=http://cpc.people.com.cn/GB/64162/82819/86594/86604/5979930.html|title=我眼中的皮诺切特 (2)|work=[[人民網]]|accessdate=2018-06-24}}</ref>など)、[[アフリカ]]([[ザイール]]の[[モブツ・セセ・セコ]]など)の[[反共]]的な[[右派]]の[[発展途上国]]の[[政権]]とも国交を持って協力関係も築いた論拠を示した<ref>{{cite web|url=http://www.marxists.org/reference/archive/deng-xiaoping/1974/04/10.htm|title=Speech By Chairman of the Delegation of the People’s Republic of China, Deng Xiaoping, At the Special Session of the U.N. General Assembly|publisher=Marxists Internet Archive|accessdate=2011-04-09}} - 鄧小平の[[1974年]][[4月10日]]の国連演説の英訳。</ref>。 |
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毛沢東が展開した3つの世界論は、[[西側諸国|西側]]における3つの世界論とは異なるものであった。西側の理論では、第一世界はアメリカ合衆国とその同盟諸国、第二世界はソビエト連邦とその同盟諸国であり、第三世界は[[非同盟]]中立諸国であった。 |
毛沢東が展開した3つの世界論は、[[西側諸国|西側]]における3つの世界論とは異なるものであった。西側の理論では、第一世界はアメリカ合衆国とその同盟諸国、第二世界はソビエト連邦とその同盟諸国であり、第三世界は[[非同盟]]中立諸国であった。 |
2020年6月17日 (水) 21:37時点における版
毛沢東思想 |
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3つの世界論(みっつのせかいろん、中国語: 三个世界理论(簡体字)、英語: Three Worlds Theory)は、中国共産党の指導者毛沢東が1974年から展開した、3つの異なる政治経済的世界から国際関係が構成されている、とする見方[1][2]。この枠組みにおいて、「第一世界」とは超大国である当時の米ソ両国のことであり、「第二世界」は超大国のいずれかと同盟する諸国、「第三世界」は非同盟諸国を指していた。
毛沢東は、アメリカ合衆国とソビエト連邦をともに第一世界に入れていた。1974年、当時国務院常務副総理だった鄧小平は、国際連合における演説の中で3つの世界論を説明し、第一世界にあたる米ソ超大国を帝国主義的覇権を求めていると批判し、中華人民共和国が、1970年代から1980年代にかけて、アジア(フィリピンのフェルディナンド・マルコスなど)、ラテンアメリカ(チリのアウグスト・ピノチェト[3][4]など)、アフリカ(ザイールのモブツ・セセ・セコなど)の反共的な右派の発展途上国の政権とも国交を持って協力関係も築いた論拠を示した[5]。
毛沢東が展開した3つの世界論は、西側における3つの世界論とは異なるものであった。西側の理論では、第一世界はアメリカ合衆国とその同盟諸国、第二世界はソビエト連邦とその同盟諸国であり、第三世界は非同盟中立諸国であった。
3つの世界論は、それまで社会主義陣営内でソビエト連邦と対立し、中国共産党と連携していた一部の反修正主義的政治勢力や政治組織を幻滅させることになった。特にアルバニアではエンヴェル・ホッジャの率いたアルバニア労働党が、3つの世界論とソビエト連邦共産党の立場の両方に反対するイデオロギー的立場に立つようになった。1976年にホッジャは毛沢東の葬儀に出席するも後継者の華国鋒と鄧小平らがさらに3つの世界論に基づいた外交を展開したことに対して中国を「第三世界の超大国」にさせることを企んでるとホッジャは非難した[6][7]。このため、それまで共同歩調を取っていた中国とアルバニア両国の共産党は、袂を分かつに至った(中ア対立)。
3つの世界論は、1982年9月開催の中国共産党第12回大会で説明無く取り消された。これ以後、中国共産党・中国政府の見解に3つの世界論は現れず、ソ連東欧の共産党・労働者党を修正主義と呼ぶこともなくなった。中共12回大会以後、中国はしだいにソ連東欧社会主義国と国家関係を正常化していったが、1980年モスクワオリンピックをボイコットして親米諸国とともにリバティ・ベル・クラシックと1984年ロサンゼルスオリンピックに参加するなど西側寄りであり、ソ連との完全な関係正常化は1989年5月のゴルバチョフ訪中までかかった。
出典・脚注
- ^ “Chairman Mao Zedong's Theory on the Division of the Three World and the Strategy of Forming an Alliance Against an opponent”. 中華人民共和国外交部 (2000年11月17日). 2011年4月9日閲覧。
- ^ “On the Question of the Differentiation of the Three Worlds”. Revolutionary Democracy. 2011年4月9日閲覧。“Three Worlds Theory”. Maoist Wiki. 2011年4月9日閲覧。 - 1974年2月22日の毛沢東とザンビア共和国のカウンダ大統領のやりとりの英訳。
- ^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China (PDF). 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.
- ^ “我眼中的皮诺切特 (2)”. 人民網. 2018年6月24日閲覧。
- ^ “Speech By Chairman of the Delegation of the People’s Republic of China, Deng Xiaoping, At the Special Session of the U.N. General Assembly”. Marxists Internet Archive. 2011年4月9日閲覧。 - 鄧小平の1974年4月10日の国連演説の英訳。
- ^ Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656–668.
- ^ Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.
関連項目
外部リンク
- “【今日は何の日】1974年:毛沢東「3つの世界論」”. Searchina Co., Ltd.. 2011年4月9日閲覧。