「ウィリアム・ヒントン」の版間の差分
Chery rohashi (会話 | 投稿記録) |
|||
25行目: | 25行目: | ||
* 『百日戦争 清華大学の文化大革命』 ''Hundred Day War'' 1972([[春名徹]]訳、平凡社、1976年) |
* 『百日戦争 清華大学の文化大革命』 ''Hundred Day War'' 1972([[春名徹]]訳、平凡社、1976年) |
||
* 『中国文化大革命 歴史の転轍とその方向』 ''Turning Point in China'' 1972([[藤村俊郎]]訳、平凡社、1974年) |
* 『中国文化大革命 歴史の転轍とその方向』 ''Turning Point in China'' 1972([[藤村俊郎]]訳、平凡社、1974年) |
||
* 『大逆転 [[ |
* 『大逆転 [[鄧小平]]・農業政策の失敗』 ''The Great Reversal'' 1989([[田口佐紀子]]訳、亜紀書房 1991年5月) |
||
== 注釈 == |
== 注釈 == |
2020年6月17日 (水) 21:31時点における版
ウィリアム・ハワード・ヒントン(William Howard Hinton、1919年2月2日 - 2004年3月15日)は、アメリカの農学者、ジャーナリスト。中国共産党の施策についての著作で知られる。
妹のジョアン・ヒントンは原子爆弾の開発にかかわった物理学者で、後に中国に移住して酪農研究者となった。娘のカーマ・ヒントンはドキュメンタリー監督で、映画『天安門』の共同監督の一人である。
来歴
1937年にはじめて中国を訪問する。ハーヴァード大学で2年間学んだのちに、コーネル大学で農学を学び、1941年に卒業する。
1945年に再度訪中し、重慶会談に出席した毛沢東と対面した。その後は、1947年から国連救済復興機構(UNRRA)のトラクター技師として、1953年まで中国に滞在した。国民党の腐敗に失望して、中国共産党の支持者となる。1948年には山西省の農村に滞在し、中国共産党の農地改革をフィールドワークする。この体験を、帰国後に彼の代表作『翻身』にまとめた。
1953年の朝鮮戦争の終結後に、アメリカに帰国する。だが、マッカーシズムの吹き荒れる中、職につくことができず、母の残した農園で農業を営みながら著作活動を行う。
1971年には文化大革命のさなかの中国を再訪問した。文革の目的自体は支持しながらも、清華大学での紅衛兵どうしの権力闘争を批判的に描いた『百日戦争』を執筆した。
その後、1975年には「米中人民友好協会」(The U.S.-Chaina Peoples Freindly Associataion)を結成した。
1980年代に、ポスト毛沢東政権が人民公社を撤廃しても、ヒントンは中国共産党を支持した。しかし、1989年の天安門事件はヒントンを失望させた。
1995年に、ヒントンの妻のキャサリン・チウがユニセフの職員としてモンゴルに赴任した際、ヒントンも同行し、モンゴルで農学の指導にあたった。
日本語訳された著書
- 『翻身 ある中国農村の革命の記録』 Fanshen 1966(加藤祐三他訳、平凡社、1972年)
- 『鉄牛 中国の農業革命の記録』 Iron Oxen 1970(加藤祐三,赤尾修共訳、平凡社、1976年)
- 『百日戦争 清華大学の文化大革命』 Hundred Day War 1972(春名徹訳、平凡社、1976年)
- 『中国文化大革命 歴史の転轍とその方向』 Turning Point in China 1972(藤村俊郎訳、平凡社、1974年)
- 『大逆転 鄧小平・農業政策の失敗』 The Great Reversal 1989(田口佐紀子訳、亜紀書房 1991年5月)