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2020年6月17日 (水) 21:27時点における版
中台戦争(ちゅうたいせんそう)とは、中国大陸を支配する中華人民共和国と、台湾島、澎湖諸島、金門島、馬祖列島を支配する中華民国との間で想定される事態である。
1950年代
1945年8月15日、日中戦争は日本の敗北に終わった。第二次国共合作で協力し日本と対決した中国国民党と中国共産党は反目し1946年国共内戦へと発展した。最新兵備を整えた国民党軍は当初は勢いがあったものの腐敗した国民党政府に対し中国人民の民意は共産党へ靡き共産党が盛り返し上海・南京を制圧、国民党軍は広州、重慶、成都と首都を転々とする。最終的には1949年に中華人民共和国が建国され、蒋介石率いる中華民国は1949年12月に台湾に逃れた。しかし、海軍力で優る中華民国は上海近郊の舟山諸島から広東省の海南島まで中国近辺の島々を全て支配下に置いていた。1950年代中華人民共和国は中国の統一の為に、1950年中華民国が領有していた舟山諸島と海南島を制圧。1955年には大陳島を激戦の末に奪取した。ここにおいて中華民国が台湾島・澎湖諸島・金門島・馬祖列島の領域を確保することになる。続いて中華人民共和国は1958年金門島と馬祖列島の奪取を企図し、激烈な砲撃を加えるものの、中華民国軍の奮戦に毛沢東は金門島と馬祖列島の奪取を諦めた。一方、中華民国側も、四川省からミャンマーに逃れた中華民国軍を再編成し大陸反攻を企てるも失敗に終わった。
1960、70年代
中国は大躍進政策や文化大革命で国内が疲弊し、台湾を軍事侵攻する能力は無かった。一方の中華民国も大陸反攻をスローガンにするも、1964年に中国が核兵器の開発に成功すると事実上大陸反攻は不可能になり、中華民国は軍事よりも経済などに政策をシフトした。1971年に国連の代表権が中国に移行し、1972年には日中国交回復。1970年代にはオーストラリアやニュージーランドが中国と国交樹立を成し遂げると、中華民国の孤立化がもたらされた。
1980、90年代
毛沢東の死後、中国の実権を握った鄧小平は一国2制度による統一を提案。しかし蒋経国は中国との一切の取引を拒否した。1988年に蒋経国が亡くなり、李登輝が中華民国総統に就任すると、中華民国は民主化し、台湾独立を主張する勢力が現れた。中国は新たに登場した台湾独立派に激しく反発する様になる。1996年、中華民国で総統選挙が行われると、中国は李登輝を「隠れ台独派」と主張し、台湾近海にミサイルを乱発した。これを脅威に感じたビル・クリントン米国大統領が台湾近海に空母を派遣。一時中台関係は危機に晒された。
2000年代
中華民国では台湾独立を主張する民主進歩党の陳水扁が総統に就任。新憲法の制定を目指すなど脱中国化路線を主張するようになると、中国はそれに激しく反応し2005年、反国家分裂法を制定し、台湾への強制統一に法的根拠を与えた。
現状
中国軍は急速にハイテク化し、台湾海峡の制海権及び制空権は中国にシフトしつつある。