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[[1949年]]からは党中南局常務委員、中南軍区政治部副主任、主任を歴任し、中華人民共和国建国後の[[1950年]]、[[広西省]]党委員会書記代理となる。[[1951年]]11月には[[広州]]に移り、[[1952年]]1月、[[広東省]]人民政府委員となる。[[1953年]]、党華南分局書記代理兼広東省人民政府主席代理に就任。[[1955年]][[1月8日]]、広東省省長に任命され、同年[[7月1日]]、広東省党委第一書記となる([[1965年]]まで在任)。また、広州軍区第一政治委員、軍区党委第一書記を兼任した。[[1956年]]9月の第8回党大会において中央委員に選出される。[[1960年]][[12月1日]]からは党中央中南局第一書記も兼任した(1965年まで)。[[1964年]]2月、陶鋳が執筆した「[[人民公社]]は前進する」と題する論文が『[[人民日報]]』に掲載されると、[[毛沢東]]の目に留まり、中央に抜擢された<ref>[[産経新聞]]「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』上([[産経新聞社]]、1999年)、222ページ。</ref>。1965年[[1月4日]]、国務院副総理に就任。[[1966年]][[6月4日]]、[[中国共産党中央書記処|党中央書記処]]常務書記兼中央宣伝部長に任命される。同年8月の[[中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議|第8期11中全会]]において党中央政治局常務委員に選出された。政治局常務委員会内での序列は毛沢東、[[林彪]]、周恩来に次ぐ第4位となった。 |
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1966年に毛沢東が文化大革命を発動したとき、陶鋳は[[中央文革小組]]の宣伝担当顧問に任命され、文革の推進役としての役割を毛沢東から期待されていた。陶鋳は毛沢東の指示に従い、文革を積極的に推進しようとしたが、文革の目的が「[[劉少奇]]・[[ |
1966年に毛沢東が文化大革命を発動したとき、陶鋳は[[中央文革小組]]の宣伝担当顧問に任命され、文革の推進役としての役割を毛沢東から期待されていた。陶鋳は毛沢東の指示に従い、文革を積極的に推進しようとしたが、文革の目的が「[[劉少奇]]・[[鄧小平]]の打倒」であることについては理解しかねていた<ref>『毛沢東秘録』上、221 - 222ページ。</ref>。その後まもなく、陶鋳は毛沢東の寵愛を失った<ref>高[2003](上村訳[2007] 上巻pp.206-207)によると、1966年秋、経済状況が急激に悪化したため、それを打開すべく工業交通座談会が開催された。そこで提示した陶鋳、李富春の毛沢東への報告が、毛沢東を激怒させたのは間違いなかった、とある。</ref>。一方、陶鋳もまた[[紅衛兵]]に疑問を感じていたし、[[江青]]をあまりよく思っていなかった<ref>高[2003](上村訳[2007] 上巻p.211)</ref>。 |
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林彪は陶鋳が、第4野戦軍以来の部下(中国語で「自己人」)<ref>高[2003](上村訳[2007] 上巻p.210)</ref>だったので、何度も陶鋳に「あなたは今から受身の立場にならねばならない」と警告した。また、毛沢東が陶鋳を批判する必要があると決心したとき、周恩来は晩節をまっとうする心理状態だったこともあり<ref>高[2003](上村訳[2007] 上巻pp.144-145)。なお、「晩節をまっとうする」とは要するに「人民の敵として批判される側に回されることなく革命家として生涯を終えたい」ということである。</ref>、毛の意志にさからうこともできなかった<ref>高[2003](上村訳[2007] 上巻p.212)陶鋳に対して援助の手を差し伸べたり、立ち上がって陶のために懇願したりすることもなく、逆に強面をつくろって陶批判会議の主宰者となり、陶鋳に自分の罪を肩代わりさせ、自分の片腕が矢に当たって落馬するのを何もせずに見ていた。<!--...他却没有对陶铸援之以手,站出来为他缓颊,反而硬着头皮充当了批陶会议的主持人,让陶铸为自己背黑锅。」--></ref>。 |
2020年6月17日 (水) 21:27時点における版
陶鋳 | |
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生年月日 | 1908年1月16日 |
出生地 | 清、湖南省祁陽県 |
没年月日 | 1969年11月30日(61歳没) |
死没地 | 中華人民共和国 安徽省合肥市 |
所属政党 | 中国共産党 |
配偶者 | 曾志 |
国務院副総理 | |
内閣 | 周恩来内閣 |
在任期間 | 1965年1月4日 - 1967年1月10日 |
国家主席 | 劉少奇 |
陶鋳 | |
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職業: | 政治家・軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 陶鑄 |
簡体字: | 陶铸 |
拼音: | Táo Zhù |
和名表記: | とう ちゅう |
発音転記: | タオ・ヂュー |
陶 鋳(とう ちゅう、タオ・ヂュー、1908年1月16日 - 1969年11月30日)は中華人民共和国の政治家、軍人。字は剣寒。中華人民共和国の建国以前は政治宣伝の分野で活動し、建国後は広東省を中心に地方の要職を歴任。中央に抜擢後、国務院副総理、中国共産党中央政治局常務委員、党中央宣伝部長などを歴任したが、文化大革命で失脚。
経歴
湖南省祁陽県石洞源榔樹村に生まれる。父・鉄錚は辛亥革命に参加したが、1918年に軍閥の呉佩孚の部下によって殺害された。
陶鋳は1926年に黄埔軍官学校(第5期)へ入学し、同年、中国共産党に入党した。1927年、南昌起義と広州起義に参加。同年末に帰郷し、劉東軒と共に中国共産党祁陽県委員会を組織し、軍事委員兼青年委員に任じられ、「年関暴動」を組織した。1929年、福建省に移り、中国共産党福建省委員会秘書長、書記となる。その後、福建省党委組織部長、漳州党特別委員会書記、福州中心市党委書記などを歴任し、閩南工農紅軍遊撃隊を創設した。
1933年5月、上海で逮捕、無期徒刑(無期懲役刑)に処せられ、南京中央監獄に収監された。1937年、第二次国共合作が成立すると、周恩来・葉剣英により救出された。
出獄後、湖北省党委常務委員兼宣伝部長、鄂豫挺進支隊政治委員代理を務めた。1940年、延安に移り、党中央軍事委員会秘書長兼政治部秘書長となる。後に政治宣伝部長も兼任した。1945年、第7回党大会に出席。
国共内戦時は、遼寧省、遼吉省、遼北省などの党委書記を経て、東北野戦軍(のちの第4野戦軍)政治部副主任を務めた。
1949年からは党中南局常務委員、中南軍区政治部副主任、主任を歴任し、中華人民共和国建国後の1950年、広西省党委員会書記代理となる。1951年11月には広州に移り、1952年1月、広東省人民政府委員となる。1953年、党華南分局書記代理兼広東省人民政府主席代理に就任。1955年1月8日、広東省省長に任命され、同年7月1日、広東省党委第一書記となる(1965年まで在任)。また、広州軍区第一政治委員、軍区党委第一書記を兼任した。1956年9月の第8回党大会において中央委員に選出される。1960年12月1日からは党中央中南局第一書記も兼任した(1965年まで)。1964年2月、陶鋳が執筆した「人民公社は前進する」と題する論文が『人民日報』に掲載されると、毛沢東の目に留まり、中央に抜擢された[1]。1965年1月4日、国務院副総理に就任。1966年6月4日、党中央書記処常務書記兼中央宣伝部長に任命される。同年8月の第8期11中全会において党中央政治局常務委員に選出された。政治局常務委員会内での序列は毛沢東、林彪、周恩来に次ぐ第4位となった。
1966年に毛沢東が文化大革命を発動したとき、陶鋳は中央文革小組の宣伝担当顧問に任命され、文革の推進役としての役割を毛沢東から期待されていた。陶鋳は毛沢東の指示に従い、文革を積極的に推進しようとしたが、文革の目的が「劉少奇・鄧小平の打倒」であることについては理解しかねていた[2]。その後まもなく、陶鋳は毛沢東の寵愛を失った[3]。一方、陶鋳もまた紅衛兵に疑問を感じていたし、江青をあまりよく思っていなかった[4]。
林彪は陶鋳が、第4野戦軍以来の部下(中国語で「自己人」)[5]だったので、何度も陶鋳に「あなたは今から受身の立場にならねばならない」と警告した。また、毛沢東が陶鋳を批判する必要があると決心したとき、周恩来は晩節をまっとうする心理状態だったこともあり[6]、毛の意志にさからうこともできなかった[7]。
1967年1月4日、江青は陶鋳を「ブルジョア反動路線の新たな代表」と断じ、中央文革小組の組長である陳伯達は「陶鋳は中国最大の保皇派である」と宣言して「打倒陶鋳」を呼びかけた[8]。紅衛兵らによって吊るし上げられた陶鋳は自由を奪われ、1月10日、全職務を解任されて失脚した。
1967年9月、姚文元は『人民日報』で、「陶鋳の2冊の本を評す」(「评陶铸的两本书」)を発表し、陶鋳を「フルシチョフ式的野心家」、「叛徒」、「逮捕を免れている右派」、「修正主義者」、「反革命の裏切り者」とし、陶鋳著の『理想・情操・精神生活』、『思想・感情・文采』の二冊は「資産階級の反革命派的『理想』であり、裏切り者の『精神生活』であり、無産階級に対して恨み骨髄に徹した感情が充満している」と宣言した。
失脚後、安徽省合肥市に移された陶鋳は、1969年11月30日、胆癌により死去した。
1978年12月、第11期3中全会で陶鋳の名誉は回復され[9][10]、同年12月24日に人民大会堂西大庁で彭徳懐と陶鋳の追悼会が挙行された。
陶鋳には妻、曾志と一女、陶斯亮があった。
脚注
- ^ 産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』上(産経新聞社、1999年)、222ページ。
- ^ 『毛沢東秘録』上、221 - 222ページ。
- ^ 高[2003](上村訳[2007] 上巻pp.206-207)によると、1966年秋、経済状況が急激に悪化したため、それを打開すべく工業交通座談会が開催された。そこで提示した陶鋳、李富春の毛沢東への報告が、毛沢東を激怒させたのは間違いなかった、とある。
- ^ 高[2003](上村訳[2007] 上巻p.211)
- ^ 高[2003](上村訳[2007] 上巻p.210)
- ^ 高[2003](上村訳[2007] 上巻pp.144-145)。なお、「晩節をまっとうする」とは要するに「人民の敵として批判される側に回されることなく革命家として生涯を終えたい」ということである。
- ^ 高[2003](上村訳[2007] 上巻p.212)陶鋳に対して援助の手を差し伸べたり、立ち上がって陶のために懇願したりすることもなく、逆に強面をつくろって陶批判会議の主宰者となり、陶鋳に自分の罪を肩代わりさせ、自分の片腕が矢に当たって落馬するのを何もせずに見ていた。
- ^ 『毛沢東秘録』上、220ページ。
- ^ (一九七八年十二月二十二日採択)中国共産党第十一期中央委員会第三回総会コミュニケ
- ^ 中国共産党第十一届中央委員会第三次全体会議公報
参考文献
高文謙[2003]『晩年周恩来』美国明镜出版社 (上村幸治 訳[2007]『周恩来秘録』文藝春秋 上巻 ISBN 978-4-16-368750-6、下巻 ISBN 978-4-16-368760-5)