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[[燕京大学]]中退。[[1935年]]の[[:zh:一二九運動|一二九運動]]に参加。[[1936年]]、[[中国共産党]]に入党する。[[延安]]では[[エドガー・スノー]]、[[アグネス・スメドレー]]らの通訳を担当する。[[1941年]]から[[朱徳]]の秘書を務める傍ら、外交にも従事する。[[1946年]]に[[葉剣英]]の秘書となる。[[1949年]]、国民党外交部の接収を指揮した。[[1953年]]、[[朝鮮戦争]]停戦交渉の中国側代表、外交部西ヨーロッパアフリカ局局長となる。[[1954年]]の[[第一次インドシナ戦争]]の休戦に関する[[ジュネーヴ協定|ジュネーヴ会議]]、[[1955年]]の[[アジア・アフリカ会議|バンドン会議]]に代表団顧問、報道官として出席した。
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[[1960年]]から[[1971年]]まで[[ガーナ]]、[[エジプト]]、[[カナダ]]大使を歴任。1971年、訪中したアメリカの[[ヘンリー・キッシンジャー]][[国家安全保障担当大統領補佐官|大統領補佐官]]との交渉を担当した。[[アルバニア決議|国連における中華人民共和国の代表権獲得]]後、初代[[国連大使]]に就任。[[1976年]]、解任された[[喬冠華]]に代わって外交部長(外相)に就任し、国務委員を兼任する。[[1978年]]、日本の[[園田直]][[外務大臣]]と[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]に調印、アメリカとの国交正常化も担当した。[[鄧小平]]の訪日(1978年)、訪米([[1979年]])に随行。


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[[1980年]]副総理、[[1983年]]第6期[[全国人民代表大会]](全人代)副委員長に選出される。全人代の代表団を率い各国を訪問し、[[1992年]]には日中国交正常化20周年を記念して団長として再び来日した。

2020年6月17日 (水) 21:26時点における版

黄華
プロフィール
出生: 1913年1月25日
死去: 2010年11月24日
出身地: 中華民国の旗 中華民国河北省磁県
職業: 軍人・政治家・外交官
各種表記
繁体字 黃華
簡体字 黄华
拼音 Huáng Huá
和名表記: こう か
発音転記: ホワン ホワ
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Huang Hua

黄華(こう か、1913年1月25日 - 2010年11月24日)は中華人民共和国政治家外交官。副総理、国務委員、外交部長などを務めた。

経歴・人物

燕京大学中退。1935年一二九運動に参加。1936年中国共産党に入党する。延安ではエドガー・スノーアグネス・スメドレーらの通訳を担当する。1941年から朱徳の秘書を務める傍ら、外交にも従事する。1946年葉剣英の秘書となる。1949年、国民党外交部の接収を指揮した。1953年朝鮮戦争停戦交渉の中国側代表、外交部西ヨーロッパアフリカ局局長となる。1954年第一次インドシナ戦争の休戦に関するジュネーヴ会議1955年バンドン会議に代表団顧問、報道官として出席した。

1960年から1971年までガーナエジプトカナダ大使を歴任。1971年、訪中したアメリカのヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官との交渉を担当した。国連における中華人民共和国の代表権獲得後、初代国連大使に就任。1976年、解任された喬冠華に代わって外交部長(外相)に就任し、国務委員を兼任する。1978年、日本の園田直外務大臣日中平和友好条約に調印、アメリカとの国交正常化も担当した。鄧小平の訪日(1978年)、訪米(1979年)に随行。

1980年副総理、1983年第6期全国人民代表大会(全人代)副委員長に選出される。全人代の代表団を率い各国を訪問し、1992年には日中国交正常化20周年を記念して団長として再び来日した。

第11期から13期まで党中央委員、第13期中央顧問委員会常務委員を務めた。

2010年11月24日腎臓病の為に亡くなった[1]。97歳没。

脚註

外部リンク

中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代
喬冠華
外交部長
1976年 - 1982年
次代
呉学謙
先代
設置
カナダ駐在全権大使
1972年3月 - 1973年9月
次代
姚廣
先代
陳家康
エジプト駐在全権大使
1966年3月 - 1969年9月
次代
柴澤民
先代
設置
ガーナ駐在全権大使
1960年8月 - 1965年12月
次代
柯華