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「四人組」の版間の差分

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[[1960年代]]半ばから約10年間にわたる[[文化大革命]](文革)において、江青([[中国共産党中央政治局]]委員、中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋([[国務院副総理]]、[[中国共産党中央政治局常務委員会|党中央政治局常務委員]])、姚文元(党中央政治局委員)、王洪文(党副主席)らは勢力を伸張し、[[1971年]]9月の[[林彪事件|林彪墜死]]以降、中国共産党指導部で大きな権力を握るようになった。[[1973年]]8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となり、この時から局内に四人組が成立する。
[[1960年代]]半ばから約10年間にわたる[[文化大革命]](文革)において、江青([[中国共産党中央政治局]]委員、中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋([[国務院副総理]]、[[中国共産党中央政治局常務委員会|党中央政治局常務委員]])、姚文元(党中央政治局委員)、王洪文(党副主席)らは勢力を伸張し、[[1971年]]9月の[[林彪事件|林彪墜死]]以降、中国共産党指導部で大きな権力を握るようになった。[[1973年]]8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となり、この時から局内に四人組が成立する。


四人組は従来の文革路線を踏襲して能力給制や余剰生産物の個人売買を認める政策を激しく批判して、政敵を迫害・追放した。この権力闘争は「党内の大儒」として暗に[[周恩来]]を批判する批林批孔運動や、復活していた[[トウ小平|鄧小平]]副総理の打倒へと続いたが、毛沢東は[[1974年]]7月の中央政治局会議で「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。また1974年10月には王洪文が鄧小平を批判してその筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも全権を握っていたわけではなかった。
四人組は従来の文革路線を踏襲して能力給制や余剰生産物の個人売買を認める政策を激しく批判して、政敵を迫害・追放した。この権力闘争は「党内の大儒」として暗に[[周恩来]]を批判する批林批孔運動や、復活していた[[鄧小平]]副総理の打倒へと続いたが、毛沢東は[[1974年]]7月の中央政治局会議で「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。また1974年10月には王洪文が鄧小平を批判してその筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも全権を握っていたわけではなかった。


=== 終焉 ===
=== 終焉 ===

2020年6月17日 (水) 21:23時点における版

四人組
各種表記
繁体字 四人幫
簡体字 四人帮
拼音 Sìrén bāng
発音: スージェンパン
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四人組(よにんぐみ、簡体字中国語: 四人帮拼音: Sìrén bāng)は、1960年代からの中華人民共和国文化大革命を主導した江青張春橋姚文元王洪文の四名のことを指す。文革四人組とも呼ばれる。

解説

もともと彼らの中華人民共和国での呼称は「上海帮」だったが、逮捕後、「四人帮」という名称を中国共産党が公式に使用し現在に至る。

プロレタリア独裁・文化革命を隠れ蓑にして極端な政策を実行、反対派を徹底的に弾圧し、迫害して殺害したが中国共産党中央委員会主席毛沢東の死後に失脚し、特別法廷で死刑や終身刑などの判決を受けた。

中華人民共和国では四人組のことを表すときに、わざと指を五本立てて話すこともある。これは、四人組の横暴を許した毛沢東を指し、四人組ではなく実際は毛沢東を首領とした「五人組」であった事を暗示しているという。[要出典]

経緯

1960年代半ばから約10年間にわたる文化大革命(文革)において、江青(中国共産党中央政治局委員、中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(国務院副総理党中央政治局常務委員)、姚文元(党中央政治局委員)、王洪文(党副主席)らは勢力を伸張し、1971年9月の林彪墜死以降、中国共産党指導部で大きな権力を握るようになった。1973年8月の第10回党大会では四人全員が中央政治局委員となり、この時から局内に四人組が成立する。

四人組は従来の文革路線を踏襲して能力給制や余剰生産物の個人売買を認める政策を激しく批判して、政敵を迫害・追放した。この権力闘争は「党内の大儒」として暗に周恩来を批判する批林批孔運動や、復活していた鄧小平副総理の打倒へと続いたが、毛沢東は1974年7月の中央政治局会議で「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを批判した。また1974年10月には王洪文が鄧小平を批判してその筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも全権を握っていたわけではなかった。

終焉

1976年1月の周恩来国務院総理の死去を契機に、第一次天安門事件などで民衆の反四人組感情が高揚したが、四人組は権力闘争を続け、鄧小平を再度の失脚へ追い込んだ。続く1976年9月9日の毛沢東の死で四人組はその象徴を失ったにもかかわらず、文革路線の堅持を主張して支配を確立しようとしたが、政権は華国鋒国務院総理に引き継がれた。

国防部長(大臣)で反文革派の葉剣英中華人民共和国元帥)から支持を受けた華国鋒総理らと文革堅持を主張する四人組の対立は、毛沢東の死の直後から急激に表面化し、上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断する。1976年10月6日、四人組は汪東興が率いる8341部隊によって北京で逮捕された。

四人組は1977年7月の第10期3中全会で、党籍を永久剥奪された。続く8月の第11回党大会では1966年以来11年にわたった文革の終結と四人組の犯罪が認定され、また実権派として迫害・追放されていた党員の名誉は回復されて復職した。

裁判

1980年11月20日から1981年1月25日までの間、四人組は最高人民法院特別法廷でクーデター計画や幹部および大衆の迫害など、4件の罪状によって裁かれた。

判決とその後

  • 江青:容疑を全面否認し、1981年に二年間の執行猶予付き死刑判決(後に無期懲役に減刑)。1991年、自殺した。
  • 王洪文:容疑を全面的に認め、1981年に無期懲役判決。1992年、肝臓疾患により獄中死。
  • 張春橋:黙秘を貫き、1981年に二年間の執行猶予付き死刑判決(後に懲役18年に減刑)。出所後の2005年、胃癌のため死去した。
  • 姚文元:容疑の一部を認め、1981年に懲役20年判決。出所後の2005年、糖尿病のため死去した。

関連項目